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弥勒の世の住人。人神ってどういう姿?|アセンションバイブル日月神示

続きのnoteです
https://note.com/uchuyumico/n/ne4bab48a5f73

このnoteでの日月神示の読み進めの前提と、やがて人類は、神人合一の人神になる説について、先のnoteで書きました。今回は「人神とはどういうこと?」について書いています。

人は神。こんなことを言うと、人が神だなんて大逸れてる!と思う心が誰にでも出てくるのではないでしょうか。もちろん私も。怖れ多いと思ってしまう、染みついた畏怖の念があります。この怖れの正体をガン見して、何がそうさせていたのかを知ることは、新しい世界への移行に欠かせないと思ってます。

人は神の分靈と言われます。人が神の分靈なら「人=神」。結局人神です。なのに自分が神と同等であると思ったり言ったするのが怖れがちなのは、古い宗教観によるものだと思われます。
神は崇めるものとの意識を持つ限り、人はずっと神以下。
ここで「はい。私は神以下で、神は私以上です」と思った方は、要チェック。

以下も以上も宇宙には存在しないはず。役割と質はあっても、根源に差はないという意味です。全てのものを細かく細かくすると、最終的には素粒子であり、宇宙に響きわたるバイブレーション。すべて同じです。

神がいなければ世界が創造されなかったことへ愛と感謝と畏敬の念が溢れても、それは親と子の関係です。崇めるのはちょっと変。

それに、神がいたから人が生まれたなら、人がいるから神が生まれたとも言える。もしも人がいなかったら、神は神足り得るのでしょうか?

創造主との関係は、卵と鶏のような関係。どちらが先か?ではなく、お互いがなければ成り立たない。神は人を創造したけれど、人も神を創造したと言えるのです。

なのに従わなければならない絶対主を人類が設定するのは何故でしょう?

根底には、人は管理および指導されなければ良くなれないとの、隷属意識がないでしょうか。隷属意識は、従順な民を育てるのに好都合だけど、人が目覚めるには、この封印から解かれる必要がありそう。

崇める対象として神を存在させる限り、反した場合は罰がある。この神観がある限り、宗教戦の延長線上の戦争がなくなることはないと思います。

神様って、出来なかったら罰を与えるの?
審判はあっても、罰はありえない。
もし罰があるなら、権力を持ちたがる意識体を神と思いたいだけなのかもです。

人が神と同等であることを怖れる心は、怖れをもたらしたい者の心だとハッキリと気づいていきたいです。なぜなら人が神と統合していく最低条件は、自分で自分自神を受け容れることからだから。

むしろ神と同等ならば、慈愛と清らかな魂の質を発揮できる自分なのだと思えませんか?それこそ人に内在した神聖に、目覚めることになるのではと思ってます。

心の中は自由です。宇宙ではあなたが信じたことが、形になります。だとしたらあなたが想像する神が自分自身でもあると想像できることは、最高に自分を幸せにする方法だと思う。

人神とは、そのような神観と自分の統合状態。
人神とは、神の資質を生きながら発揮する自分になること。
人神とは、靈主体従に覚醒すること。

世界にとって好ましい姿はどちらだろう?

こんな疑問も湧くと思います。『このまま生きていれば、誰でも人神になるのだろうか?』。

次ぎの記事に続きます。

*審判と罰の違い:
罰には考えが入ってます。罰を与える側の意識があり、与えられる側がいて成り立つ上下関係。審判は判定です。

濁った泥水があったとします。濁っているからと制裁を加えるのが罰。これは泥水なのだと判定するのが審判。神の審判となると、泥水を上澄みと泥の現象に見出し、清濁を評価することになるのでしょう。日月神示ではこの区別を「立て分け」と言います。

評価して裁くからと言って、罰を与えるのとは違います。自然災害が現象であって、罰ではないのと同じです。罰と思った時点で、人の価値観。

日月神示には審判の言葉が沢山登場しますが、それは人智を超えた、神という自然科学現象による原因と結果の世界。

#目覚めよ日本人

アセンションバイブル|はじめての日月神示、について書いています。
目次をリンクにまとめてます。
contents

ライフアルケミー裕美子
https://lit.link/lifealchemy
LINE公式|自己超越系!幸せの次元法則


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