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OLA革命-自分度の広げ方 16「都市空間と住宅の間をどう計画するのか」

閉ざされている住宅

 元々、日本の家屋自体は、兼好法師などの言葉にも残っているように、「夏をもって旨とすべし」。つまり、夏を基準とした、アジア的な開放的な作りをしていました。垣根を設け、縁側があり、いかに日射を防ぎつつ、風を通すのかという点に計画の力点が置かれていました。
 しかし、エアコンと自家用車の普及、自動車の排ガスと騒音、さらにセキュリティやプライバシーの問題から、どんどん住宅は外部に対して閉鎖的な空間に変質していきました。そういうプライベートな空間が最大化していく現代において、コモンをどう取り戻すのかというのは、重要なのですが、出口の見えないテーマだと考えています。

地方でも同じことが起こっている

 岡山県真庭市という地方都市なら、コモンが再生できる、縁側が再生できる、そういった中間領域を共有できるようなしくみを作り込める、と思っていたのですが、大都市とは規模が異なるだけで、真庭市においても、暮らしに自動車は不可欠であり、縁側という中間領域へのニーズは、ほとんど感じられない状態になっています。自宅に作る縁側すら不要なのに、コモンにどうやって意識を向けてもらえるのかと感じています。

元凶としての宅地内駐車場

 西宮市甲子園口は、昔からの都会の住宅地なのですが、間口(道路に対する宅地の幅)が6~10m程度で、その間口の2.5m、1/3から1/4程度は、青空駐車場だろうが屋根付き駐車場であろうが、駐車場であり、玄関・門扉という閉鎖的な空間を合わせると半分以上が、もう閉鎖的な空間なんです。
 それに対して商店街は、車が入ってこれないせいで、人と人とがコミュニケーションできる空間構成が作りやすいです。ということでいうと、住宅地の駐車場はどこかに集めて、住宅地内に駐車場は作らないくらいのまちづくりにしない限り、この問題は片付かないのではないかと思います。

都市計画的な歩車分離の方式倒れ

 歩車分離を計画的に行った方式に、ラドバーン方式やボーンエルフ方式があり、郊外のニュータウン等で積極的に実験的に行われてきたのですが、方式が先に立ってしまい、方式ありきで作った街となって、非常に固い空間になってしまいました。
 もう少しルーズな、自然発生的に暮らしを包むような歩車分離のやり方があるのではないか、とは考えていますが、既存の都市空間でそれを実現するのは、かなり難しい側面があります。

合理化という名に抗うこと

 建築や都市計画という、物(ハード)で街の構造を組み立てるという対応ではなく、生活をどうするのか、暮らしをどうするのか、という生活者の視点(ソフト)を組み込んだまちづくりが必要と言われて久しい。
 テレビで観たのですが、真庭市よりもっと小さなイタリアの村では、大資本の店舗やチェーン店を入れずに、地域の地場産業、地場職人を守り、自動車も緩く歩車分離し、顔の見えるまちづくりをしていて、規模ではなく、そこにある文化や哲学の違いを感じました。
 日本では合理化の名のもと、便利になっていく一方で、人とのつながりは、不要であるような方向に進んでいます。まちづくりにもその「合理性」が発揮されているわけで、人とのつながりが不要なまちづくりが進むのは、ある意味必然だと思います。
 その中で、その流れの中で、コモンが必要だというアプローチは、人間が部品ではなく、人間である証左だという想いでこれからももがいていこうとしています。

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