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自己紹介が苦手なわたしは、差別化も図れない。だけどそんな自分だからこそ求められるのがコーチングだと思ってる

私のnoteのプロフィールは一言「自己紹介が苦手」だけなので
大変に不親切だと思う。
(この記事をあなたが読む頃にはもう変わってるかも。そしたらすまん)


これが私。


ぼくは自己紹介が苦手

でもこれには理由があって、
自分という人間をそう簡単に語ることはできないという
自己理解があるからなのです

他人のことも、そう簡単にラベリングしたり
自分の知っている枠組みで切り取ったりすることが
とても「まずい」ことのように思えてくる

新卒で入った会社で、
苦手だった上司がいたのですが
よく口にしていたのが「新人はわかりやすくあれ」
でした。
こちとら「そう簡単に分かられてたまるか」
という所存で、当時の自分は
パンクだったなと思うわけです。
※角は取れたけど、根っこは今も変わってない

そんなわけで、私はとにかく文字を書いたり
ワーワーと時間をかけて
まとまってないけど口に出してみたり
噛みしめて沈黙したりできたり、
そういう「一見遠回りなコミュニケーション」が
自分にとって大事ということに気付いたのです。

待ってくれる人を探している

そんな折にコーチングの存在を知ったのですが、
どうやら「沈黙は最高の調味料だ」
とかって誰かが言ったとか言ってないとか。
沈黙の時間だけ、思考の味わいが深まる。

沈黙の向こう側に何かがあるというのは
私自身がコーチングを受けたり、
人にコーチングを提供するなかで
本当に感じます。
だから私たちは
「そう簡単に口にできない自分を待ってくれる人」を
探しているのかもしれない。
本当に静かな時間、って簡単には作れないよね
早く、正しく話さなければ、という思いに
駆られることが多いと思います

差別化をやめようと思った

コーチングを提供しようと思い始めたとき
「差別化を図ろう」とかって考えていました
しかし、今は差別化を放棄しています。
理由はいくつかあります。書いてみましょう。

差別化をするにはクオリティを一定にして
いつでも同じ品質を提供する必要がある。
「他者との差異が明確」である差別化なのであって
そこの輪郭がぼやけていたら差別化ではない。
しかし対話において「毎度同じ」はありえない。
そして受け取る相手によって、同じ言葉を投げても
同じようには受け取られない。
「表面上の品質」を均質化できない。
だから対話の差別化はできない。

コーチングを受けてくれる相手の唯一無二性を
心から信じて「願いに従って、ありのままやってきなよ」と
言っているコーチである自分が、
自分の唯一無二性を信じてない。ってギャグだよね

っておもう。

だとしたら、私が対話の相手として選ばれる理由は?

それは、今の自分のままを臆せず全部出していくこと
自己紹介が苦手なんだよ!と言ってしまうこと
話せないときは臆せず沈黙すること
そのすべてが自分だと受け止めたうえで
世界とかかわっていくこと

それができるから、
私との対話に臆せず臨んでくれる人が
自然と現れてくれています
嬉しい。

そしてこれからも、
そういう奇跡みたいなことが
自分らしく生きた分だけ起きると
信じているのだと思う。

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