「面白いネタ」の気味悪さ

野々村竜太郎議員の謝罪会見が色々と個性的すぎて話題になっているようである。そうなるとこのネット社会ではかなりネタにされやすいようで動画サイトやSNSではかなりその会見をもじったようなネタや画像などが頻発していてその大体のものがどうやらウケを取れているようである。無論、それを楽しいと思う人の気持ちもわからなくはないがこのような状況を薄気味悪いと思っている人も少なからずいるであろう。自分も後者側の人間である。では、なぜ自分がこの雰囲気を「気味悪い」と思っているかをこの文章を書きながら思い出すことで確認していく。

思えば野々村氏以前にも所謂「ネタにしやすい」人たちが最近では多かったように思われる。音楽家であったり科学者であったり、世間を悪い意味で騒がせた人がこれにあたるだろう。では、いい意味での印象を持つ(もしくは人様に迷惑をかけてはいない)人はその対象ではなかったかというとそういうわけではなかった。とりあえずネタを作ろうと思う人は面白そうなものに食いつくスピードが異常に早く、また、共通認識がしやすいものを効果的に取り入れ作るのであろう。よく言えば目の付け所がいい、で済ますことができるのであろう。しかし、どうにも気持ちが悪いと思ってしまう理由はなぜだろう。

例えば件の野々村議員の場合であれば、会見での特徴的な泣き方と喋り方や動作などがかなり特徴的である。極端に言えばその特徴的な印象と動作を多少盛り込めばネタは作ることができ、それを見る人も例の事件や人物との関連は容易くなる。そうなると、その手軽さゆえに同様のネタは乱立する場合が多い。手軽に投稿ができ広まりやすいSNSサイトなどでそのネタが雨後の筍のごとく出現し、目に見える場所に来ると途端に「またこのネタかよ……」という考えになってしまい、たとえ個々で見ると良質なネタであるかもしれないのに「野々村議員ネタ」というひとつのカテゴリに入ってしまうことで途端に陳腐なものに思えてしまうのである。そうなると途端にセンスがないネタがまたネット上に一つ増えたとしか感じなくなる。要はマンネリだと思ってしまうのだろう。そう感じるようなネタが多くの目に触れることにより「笑った」「面白い」というコメントがつけられることによって自分が感じている気味の悪さとの温度差を感じてしまって余計につまらなく感じてしまう悪循環がそこに発生していると少なくとも自分は感じてしまうのだ。「いや、多少悪いことはしたんだからネタにされるのは当たり前じゃん?」という意見もあると思うし、その考えについては自分はわりと肯定的な態度であると思う。しかし、どうせ作るならテンプレートに当てはめるだけでなく趣向を凝らしたものをどうにか作って欲しいし自分も作れるようになりたいものである。

だからこそ自分はネット上で創作活動をしている人の中でも水物のようなネタをパロディすることに走らずに独自の路線でネタを作る人人を尊敬してしまうのかもしれない。まあそもそも「twitter上でネタを上げる」ということ自体がもうマンネリを迎えてきているのかもしれないが……。


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