「恐怖ショー」 三話

 満身創痍の身体を引き摺りながらメインテントへと歩を進める。延々と悲鳴を上げ続けている左半身と頭は、俺の動きを一層鈍くする。それでも演目のために向かう時と比べれば、数段気分は良かった。

 向かったのはいつもの裏口ではなく、客が出入りする表口の方だった。初めて見る観客たちの背中は、やけに小さく見えた。ステージでは暗所恐怖症の少年が、ダグラスの鞭に打たれて泣いている。俺はビルの置き土産であるスピリタスの栓を抜き、一滴残らずテントに振りかけた。濡れたピエロの顔が、忌々しいダグラスと重なって見えた。
「笑っていられるのも今のうちだ」
ビルの煙草と共に置かれていたライターを取り出し、俺はテントに火をつけた。

 度数九十パーセントを超えるアルコールは瞬く間に燃え上がり、長年俺を閉じ込めていた恐怖と苦しみの権化を焼いていく。ポリエステルが燃焼するつんとした臭いが辺りに立ち込め、異変に気付いた入口付近の観客が悲鳴を上げる。その阿鼻叫喚をしっかり聴いてから、最後の力を振り絞って裏口へと走った。
 バチバチという断末魔を上げながら、テントは真っ赤に燃えていく。脱出を試みようと出口へ大挙する観客たちを、高く舞い上がる火柱が生き物のようにうねり、阻んでいる。そのうち一人が着ていた高価そうな服に燃え移り、狂乱に拍車をかけていった。
「こっちだ、早く!」
 裏口から三人の少年たちを逃がし、俺はステージ上で呆然と立ち尽くしているダグラスを見据える。既に天井付近にまで広がった炎が、赤と白のストライプの破片をいくつも二人の間に降らせている。奴の目が俺を捉え、怒りに震え始めた。その形相は、炎に包まれた背景も相まって地獄の鬼そのものだった。

「俺のテントに火をつけたのはてめぇか、フォール!」
 握り潰さんばかりの勢いで無線機を鷲掴みにし、怒声を上げる。
「ビル! てめぇ何してやがる! とっととなんとかしろ!」
「ビルはもういない、俺が解放したんだ。団員たちもすぐに自由になる。俺がお前を殺せばな」
 怒り狂ったダグラスは無線機を地面に叩きつけ、腰のホルスターから拳銃を抜き、俺に向かって突きつけた。
「ゴミの分際で図に乗りやがって……俺は死なねえ、殺されるのはてめぇの方だフォール!」
「手が震えてるぞダグラス。お前、俺にビビってるだろ、何故だか教えてやる。お前は俺たちを見世物にし、毎日のように重い罰を与えてきた。そんな生活の中でお前が一番恐れていたことは、俺たち団員の逆襲だ。俺たちがお前を恐れる以上に、お前は俺たちを恐れて生きてきた。パフォーマンスや罰の重さはエスカレートしていったが、結局それもお前の恐れを加速させただけだった。そして今日、謀反は現実になった。今お前は間違いなく恐れているはずだ、俺のことを。まだわからないか? お前も立派な恐怖症患者なんだよ。自分の行いの積み重ねで、お前は恐怖症患者の恐怖症になったんだ」
「俺がお前らを恐れてるだと? ふざけるな! そんなわけがあるか!」
 ダグラスが一瞬怯み、銃を握る手が僅かに緩んだのを俺は見逃さなかった。体勢を低くし、醜く突き出た奴の腹めがけて突っ込む。
 意表を突かれ、もろにタックルを受けたダグラスの身体が浮き、俺たちは倒れ込む。すぐさまマウントを取り、顔面に向けて拳を振り下ろす。包帯でせき止められていた血が再び流れ出し、奴の顔を真紅に染めていく。
絶対にここで殺す。大きく拳を振りかぶった瞬間。凄まじい叫び声と同時に、ダグラスが左に身をよじった。俺の眼前に突き出された奴の右手が一瞬明滅し、同時に真正面から殴りつけられたような衝撃が俺を襲った。左に激しく振られた頭を戻すと、顔面の左半分に暗幕がかけられたような違和感を覚える。そこでようやく、ダグラスが発砲した弾丸が俺の左目を貫いたとわかった。二人の血に塗れたダグラスの顔には、二つの目と、口から覗く歯だけが見える。奴が笑っている。
「俺は何も怖くねえ。死ね、フォール!」
「嘘をつくな。昔逃げ出したレンを一発で殺したお前が、今は目の前の俺すら仕留められない。それが証拠だ、お前も俺たちと同類だ」
「次は外さねえさ」
 二発目の弾丸が放たれる瞬間、何者かの足が視界に飛び込んできて、ダグラスの右手を踏みつけた。指の骨が折れる嫌な音が響き、直後にダグラスの絶叫が上がる。顔を上げると、そこには凛々しい顔をした大男が立っていた。
「リック、お前……逃げろって言っただろ」
「何言ってんだ。俺が助けに来なかったら死んでたぞ、フォール」
 ダグラスの表情には、明確な怯えの色が見えていた。リックは不自然に曲がったダグラスの右手から拳銃をもぎ取ってから、その大きな手で奴の口をこじ開けた。
「いいぞ、スミシー」
 リックが声をかけた方へ振り返ると、そこにはスミシーが立っていた。彼女の胸の中央、差し出すような形で並んだ手の中には、青い毛を纏った巨大なタランチュラがいた。これから何をされるのか察したダグラスが目を見開き「やめろ」と声を上げるが、口をこじ開けられているため間抜けな音しか出ない。スミシーがダグラスの口元へ手をもっていく、暗い穴に潜む習性のあるその毒蜘蛛は、八本の足を器用に動かし、いとも簡単に奴の口腔内へ侵入した。
「アハハハハハハ。アハハハハハハ。アハハハハハハ」
苦悶の表情でのたうち回るダグラスを見下ろして、スミシーが狂ったように笑う。初めて聴く彼女の笑い声は、しばらくの間、周囲に響き渡った。

 リックが俺に拳銃を手渡して言う。
「お前の役目だ。ダグラスを撃て」
 足元には中年の男が倒れている。毒蜘蛛に口腔内を何度も噛まれ、全身に毒が回って痙攣しているその姿に、恐怖を抱く要素はどこにもなかった。
ダグラスに銃口を向ける。奴は毒で麻痺した身体を精一杯よじらせて逃げようとしたが、すぐに諦めたようだった。
「哀れだな、ダグラス」
口をついて出た俺の言葉に反応し奴が俺を見る。これまでとは違う慈しむような視線に嫌悪感を覚え、俺は拳銃を握り直して奴の眉間に照準を合わせる。すると奴は、うわ言のように何かを呟いた。
「オリビア……」
 困惑している俺を見つめながら、ダグラスは言葉を続ける。
「オリビア、お前の母親の本当の名前だ。あの女は十五でお前を孕んだ……孕ませたのは俺だ。いいか、お前には俺の血も流れてんだよ」
拳銃を握る手が震える。呂律の回らなくなった口で、ダグラスは続ける。
「オリビアは美しかった。だから鞭打ちの代わりに、性処理に使わせてもらった……妊娠した時は面倒くせぇから殺しちまおうとも思ったが、俺は考えた。妊婦を高所から落とす流産ショーはウケるんじゃねぇかってな。予想は大当たりだった、おかげで客入りは倍以上になったよ。だが結局てめぇは産まれた。あの女が毎回腹を庇って落ちてたおかげで、奇跡的に腹ん中のガキは流れずに済んだんだ。てめぇを育てる了承を俺から得るために、あの女は他の団員の代わりになってまでサーカスに出続けた。最期に内臓が破裂して死ぬまでな。そしたらどうだ、必死で育てたガキも高所恐怖症ときた。親子二代に渡って充分稼がせてもらったぜ……ククククク……傑作だ、ざまあみろ。どうだ、屈辱か、息子よ」
 パン、という乾いた音と共に、ダグラスは動かなくなった。リックが問う。
「良かったのか」
「当然だ」
 ほとんどが焼け落ち、骨組みだけになったテントを訪れる者は、もう誰一人としていない。俺は天を仰ぐ。骨組みの彼方に広がる大きな夜空は、自由になった俺の未来を暗示しているようだった。


「怖いものと言えばよお、正義の殺人鬼って知ってるか?」
 酒に酔った四人の青年たちの内一人が、再び七不思議を語り出した時、カウンターに座っていた男が静かに立ち上がり、店を後にした。店内にいた者は皆、その男のことを気にも留めなかった。
「聞いた話だけどよ、女や子供を売って金儲けしてるような、あくどい連中だけを狙った殺人鬼がいるんだとよ。孤児院だとか養護施設だとかのお偉いさんが眉間を撃ち抜かれて死んでたら、大抵そいつの仕業だ。被害者の経歴を洗うと毎回真っ黒だから、サツも黙認してるらしい。だから正義の殺人鬼って呼ばれてんだ。驚くのはここからで、そいつは世界中で同じような殺人を繰り返してるらしい。ただの模倣犯だって言う奴も中にはいるが、俺は正義の殺人鬼の単独犯だって方に賭けてんだ。で、そいつの特徴ってのがな……片目が無い、白髪の男なんだとよ」

 バーを後にした男は、とある孤児院の前で足を止めた。電灯の光が漏れるカーテンの隙間から中の様子を伺うと、一見して誠実そうな男が二人、ソファに座って向かい合い、何か話しているようだった。片方の男が手にするファイルには、この孤児院に預けられているであろう子供たちの顔写真が、乱雑に貼られている。
「この子は雷や爆発音などの大きな音を非常に怖がります」
「ほう、それは面白そうだ。リストに入れておくか」
二人がそんなやりとりを交わした時、窓が叩かれた。
「夜分遅くにすみません、お尋ねしたいことがあるのですが」
 一人の男が面倒臭そうに立ち上がり、窓を開ける。
「こんな夜更けに、一体何の用だ?」
「お前らは、何が怖い?」
 消音機付きの銃声が二発、微かに響き、夜の静寂に溶けた。
床に転がった二つの骸を確認した隻眼の男もまた、夜闇に輝く白髪を風になびかせながら、何処ともなく歩き始め、やがて姿を消した。

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