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『旅はうまくいかない』

チェコ編②「最悪の中で最高の選択をするには」

飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、知らない場所には行ってみたい。

今回はチェコのプラハと田舎町ミクロフへ。チェコビールを飲みまくり、混浴サウナにドギマギし、熱波のヨーロッパにヘキエキする。旅はうまくいかない方が面白い。チェコ八日間の旅。

「ねぇ、どのマグネットがいいかな?」と妻が嬉しそうに僕に尋ねた。

「これなんかどうかな」と僕はユニオンジャックに二階建バスのマグネットを指差した。

お土産物店は混んでいた。女王陛下の写真があり、イギリス王室のグッズが並んでいる。そう、僕らは今、ロンドンのヒースロー空港にいた。

十五時間前まで、自分がロンドンにいるとは思いもしなかった。そのとき僕は成田空港第一ターミナルのフードコートでおにぎりを口にしながら、携帯の画面を見つめていたのだ。

「なぁ、どこに行きたい?」と僕は妻に尋ねた。
「行くなら、今までに行ったことがある場所がいいんじゃない。ガイドブックとかなくても行けて…」
「ひとり十万円もあるんだ。せっかくだから豪華なホテルに泊まって贅沢しよう」
「バンコクなんかどう?」
「シンガポールは?いいホテルがいっぱいあるよ」

ネットで航空券を検索しながら、どんどん気分が盛り上がっていく。僕らはすっかりプラハへの旅を諦めて、別の場所に向かおうと考えていた。

「どっかで水着を買わないとな」と僕が言うと妻が微笑む。

「なんだか、すっごく、楽しいんだけど」

今日これから、どこへでも好きな所に行けるのだ。これほどに贅沢な旅行計画もない。調べると航空券も思ったほどに高くない。当日となれば、誰も買う人がいないからだろう。

休みは一週間ほどあるのだ。アジアの国なら存分に楽しむことができる。

そんなことを考えていると、僕の携帯が突然鳴った。どうやら先ほどの空港職員の男性からのものだ。

「ありました。本日中にプラハまで行く便がありました。ロンドン経由です。ブリティッシュエアウェイズになります。時間が迫っていますから、すぐにカウンターまでお越しください」

携帯をきると、僕らすぐにカウンターに向かった。妻を見ると少し残念そうな顔をしている。

「もう心は南国だったから、心が切り替わらないの」と妻が言う。
「わかるよ。実は俺もそうなんだ。せっかく取ってもらったけどキャンセルするか」
「でも…行けるならプラハに行った方がいいよね」
「そうだな…経由地のロンドンに行ったら、マグネットを買えばいいじゃないか」
「そう、そうよね」

世界の都市のマグネットを集めている妻が笑顔になった。

ロンドン経由は確かに時間がかかるが、ロシアを経由するより安心だった。(モスクワまでは十時間だが、ロンドンまでは十三時間かかる)それにブリティッシュエアウェイズならアエロフロートよりずっと乗り心地はいいはずだ。

カウンターに到着すると、先程の空港職員の男性が待っていた。

「出発まで二時間を切っています。急いでください」
「どちらのカウンターに行けばいいんですか?」と僕は尋ねた。
「ここではなく、第二ターミナルになります。そちらのエレベーターを降りて、バスに乗ってください」
「それは大変だ。急がないと」

僕らはスケジュールのコピーをもらうとすぐに走り出した。せっかく三時間前に来たというのに、こんなドタバタしなくちゃならないんて信じられなかった。

「どこだ?空港のバス?」

今まで一度もターミナル間の移動をしたことがないので、要領がわからない。時間は刻々と過ぎていく。すでにボーディングタイムまで二時間を切っているだろう。

「これ遅れたらどうなるんだ?」と僕は妻に訊いた。
「少しは待ってくれるでしょ」

なんとかバスに乗り、息を切らしながら窓から外を見つめた。梅雨空のために重い雲がたちこめている。いつ空は晴れるのだろうか。

ふと見ると意外にも妻が嬉しそうに笑っていた。

「何?」と僕は妻に尋ねた。
「なかなかやるじゃないオリンピック男」と妻が言った。「まだ持ってるじゃない、運を」

別に僕はオリンピックに出場したことがあるわけではない。ただオリンピックの観戦チケットを当てただけだ。だが、まわりの友人がほとんど落選したために、僕だけが「持ってる男」として羨ましがられている。

「いや、持ってないよ。持ってたら予定通りに行けるはずだろ」と僕が言う。

「そんなことないわ。先に行く八組は今日中にプラハには到着しないのよ。でも私たちは少し遅くなるけど、今日中に着くじゃない」

あの空港職員の男性のおかげで、僕らだけがロンドン経由で行けるのだ。

「あなたの事前準備と、しぶとい交渉のおかげよ。久しぶりに頼もしく思ったわ」

妻にそう言われて気恥ずかしくなった。僕は別に交渉が上手いわけじゃない。むしろ下手だと思う。今回はたまたま運が良かっただけだ。

「行かない、という選択肢を俺たちだけが持っていたからだよ」と僕は言った。
「そうかな」
「そうだよ。前の八組はどうしてもプラハに行きたかったんだ。だから向こうに足元を見られることになったんだと思う」

どうしても行きたいという思いは、航空会社側に有利な交渉をもたらすものだ。だから最低の提案でも受けいれるしかなかった。だが、僕らは航空会社側の最低の提案にはきっぱりノーと言った。その提案ならキャンセルも辞さないと考えていたからだ。だから一番条件の良い方法を引き出せたのだ。

これは、どう考えても妻が始めの段階で「行かなくてもいい」と声に出しからだと思う。これが「どうしても行きたい」だったら、きっとアエロフロートに乗っていたことだろう。

一瞬の判断で次の展開が天と地ほどの差になってしまう。それも判断する材料も時間も少ない。暗闇での綱渡りするようものだ。

「でもさ、南国のプールも行きたかったな」と妻が残念そうに言う。

確かにそうだった。成田空港のフードコートで、どこへ行こうかと考えている時間ほど楽しい時間はなかったからだ。初めての経験だったが、予定変更がこれほど楽しい時間になるとは思わなかった。

「旅ってさ、実際に行くよりも、計画しているときの方が楽しいのかもしれないな」と僕は言った。

それはそうだろう。今日今から行く場所を考えるのだ。それも成田空港にいながらだ。こんな経験は二度とできないかもしれない。

「やっぱり俺たちはツイているかもな」
「絶対にそうよね」

なんだか嬉しくなってきた。トラブルですっかり嫌な汗をかいてしまったが、それも日本にいる間のことだ。なんとかなるのはわかっていた。だから、どこかに心の余裕もあった。交渉という交渉でもない。僕はただたんに相手にどこまでできるかを質問していただけだ。だが、これがモスクワだったならそうはいかないだろう。英語に不安がある上に、相手は今日のように親身になって聞いてはくれない。何しろ相手はアエロフロートなのだ。しかもロシア人だ。簡単に交渉できたら、すでに北方領土は日本に帰ってきているはずだ。

「よかったよな、遅延が日本でわかってさ。これがモスクワだったと思ったら、ゾッとするよ」

十三時間は長かったが、ブリティッシュエアウェイズは思った通りに快適だった。おつまみのプレッツェルは美味しかったし、ワインは小さなボトルで配られた。機内食もまぁまぁだ。お尻と腰は痛かったが、それはどんな飛行機に乗ってもエコノミーなら同じだ。

「ビジネスクラスへ変更はダメだったのかな」と僕は言った。
「そんなの絶対に無理よ」と妻が言う。
「せめて通路側の席がよかったな」
「それも無理だったんじゃないの。残りの席はほとんどないじゃない。無理やり最後に入れてもらったのよ」

僕らは何年振りかに窓側からの席に座った。おまけに窓側なのに窓がない席だ。なぜか壁になっていた。

「無理やり乗せてもらってるんだから、仕方がないか」と僕は言った。

「今日中にプラハに行けるんだから、いいじゃない」
「そうだよな。今頃、アエロフロートに乗っていたら、モスクワの空港で足止めだものな」
「そうよ。もしかしてホテルも斡旋されない可能性だってあるでしょ。悪天候で飛行機が飛ばないのは、私たちの飛行機だけじゃないんだから」

どう考えても僕らは最悪の中で最高の選択をしたことになる。少々座席の位置が悪いからと言って文句を言ってはいけない身分だった。

「もうアエロフロートには乗らないから」と妻が言った。

だが、妻は大事なことを忘れていた。行きの便はブリティッシュエアウェイズになったが、帰りの便は相変わらずアエロフロートのままだ。この旅はまだまだ始まったばかりだ。そしてトラブルもまだ始まったばかりだった。

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