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ひめゆり平和記念館の入場券

部屋の掃除をするたびに、あ、こんなものもとってとっておいたのかとしばし眺めて捨てようかなと思いながら大抵は捨てられないで整えてまた部屋のどこかにしまってしまう。

子供の頃から捨てられないもので溢れてるけれども、ゴミ屋敷までは至っていないのでまだ大丈夫ではないかと思っている。

コンマリとかよくわからないけども、最近は「ためこみ症」という名前が表舞台に上がってきて、聞けば何だか自分も多少当て嵌まる気もしなくもなく、これは少々注意したほうがいいかなと思えたので、自分がとっておいてしまっている物たちが何なのか整理しておこうと思いたって、そのメモをたまにnoteの投稿してみようと思いますが独り言です。

数日前は引き出しの中から、ひめゆり平和記念館のチケットが出てきた。96年の春前だったか、高校二年生の終わりに沖縄に修学旅行で行った時のもの。

その前年、沖縄の修学旅行ってビーチで遊ぶのかなあーなんて呑気なことを思っていたところに、沖縄米兵少女暴行事件が起こり、県民総決起大会がニュースで流れていた。

ニュースでは同じ歳くらいの女子高生も何か訴えている姿を見たような気がする。なんかその女子高生の姿がいつもボンヤリ脳裏をかすめるのだけども、ともかく、当時ニュースからは沖縄の多くの人たちが怒っていることは伝わってきて、何かいま沖縄はただならぬことになっていることだけはわかった。

沖縄の全員が怒ってるっぽいぞと思っていたので、そんなところに浮かれてワイワイはしゃいで行っていいものなのか、いったいどんな顔して沖縄に行けばいいんだろとなんだか少し気が重かったが、妹尾河童の河童の覗いたシリーズか何かで一木からくり抜いて出来た琉球の枕のことが書いてあって、せっかくだからそれを買うことだけを楽しみにしようと決めた。

先生たちが組んでくださった通りに滞りなく修学旅行の飛行機は羽田を離陸。着いてみたらそれまで感じたことのない湿度に驚いた。これが南国沖縄か!と。空港からはいきなり観光バスだったので沖縄の方々の様子は全然わからない。

修学旅行は3泊4日だったかと思うけれども、たしか一番最初に行った先が、ひめゆりの塔だったかと記憶してる。おばあちゃんがお話をしてくださっていたけれども、戦争のことが遠い遠い昔のことのように感じていた。防空壕の中で泣く子がいて、その涙が何なのか自分には分からなかった。その戦争のことがあの事件に繋がっているなんてことは思いもしなかった。

グループ行動の時に米軍基地の前で記念写真を撮ろうと言われて、事件のことがずっと引っかかっていてここで記念写真なんて何か後ろめたい気分がして、僕はいいやと言って友達たちがゲート前の米兵に声を掛けて並んでいる写真を撮った。シャッター切る時も何か後ろめたい感じがした。

ホテルの前の浜辺で夕飯を食べながら修学旅行実行委員みたいな彼らが琉球太鼓を叩いてた時も、なんかこのノリは今の沖縄で違うんじゃないかと思った。

金武の鍾乳洞に行った時のオバちゃんが古酒を一口だけと飲ませてくれたけれども、一口飲んでビックリするくらい清らかな水のような味に感動して、すみませんもう一杯くださいと言ったら先生には内緒だよってもう一杯くれた。沖縄に来てからはじめて気持ちが弛んだ瞬間だった。

帰るまえに国際通りの民芸品屋さんみたいなところを何軒か回って河童さんが描いていた木枕をゲットして、ちょっちゅねを2袋お土産に買って沖縄を離陸した。

沖縄にいるあいだ中、目にする景色の脳裏にはつねに事件のことがあって、沖縄の方々の生活に触れるわけでもなく、結局観光みたいな行程で何をどう思えばいいのかわからないし、でもとりあえず楽しんでちゃいけないんじゃないかという気持ちだけで初めての沖縄は過ぎてしまった。

その修学旅行以来、何となく沖縄に行くのが躊躇われたが、茂木先生の仕事の金魚のフンで16年ぶりで沖縄に行ったら、空港はひとつ増えていて、ゆいレールまで出来ていた。浦島太郎状態だったけれども、空港に着いた時のムシっとした感じだけは同じだった。

それから沖縄の方々とご縁を頂いてお話をさせて頂いて、あの高校生の時にモヤモヤしていた気持ちは少しだけほどけた気もするけれども、それでも、あの頃よりももっと大きく声が届いてくる米軍の問題は今もまだそのことを自分がどう考えたらいいのかわからないでいる。

ただ、沖縄でご縁を頂いた方々の様子をFacebookで見られるのが嬉しい。








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