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「推し」がCOLLISIONする凝り性な俺

ある日、国民的キャラクターはYouTubeにてこう言った。

『推しの数だけハッピーも増えるよ!』

この自己紹介を想定したナニカを書こうと思った頃には、該当の動画は非公開となってしまったためにリンクを示せないことが残念だが、この発言については俺もはじめは肯定的に受け取った。

しかし、果たして「推し」を増やすことが善良であると言えるのだろうか。

タイトルにも示した通りの凝り性な俺は、その発言を額面通り受け取るには少し逡巡する時間があった。

はじめの友は、空

ここからは「推し」という語を各種コンテンツ・分野・概念の範囲まで拡張して話を進めたいと思う。

俺が「推し」と呼ぶにふさわしい存在に出会ったのは幼稚園の頃だ。執筆時点で四半世紀近く前の話であるから、多少なりとも空想が織り交じっているかもしれないが、そこは容赦してほしい。

この頃からとにかく人見知りで他人と馴染めなかった園児時代の俺は、ただ本を眺めるか、掲示してあった五十音票を真似て文字を書くことばかりしていた。

外に出て遊ぶことを半ば強制される時間帯は、俺にとっては大なり小なり苦痛だった。遊具で遊ぼうにも、どこでソレを備えてきたか分からん我の強い園児らとの競争に負けるし、その負けによって早々に培われてしまった己に対する自信の無さから身体を動かすことすら億劫になっていった。それが示すように、かけっこの順位なんて下から数えたほうが早かった。

そんな俺はいつしか、外に出される時間はただ空を見つめるようになっていた。何がトリガーになったかは、この記事を公開するころまでには終ぞ思い出すことはできなかったが、気づけば空ばかりを見ていた。

そうするうちに「空」が面白い存在であることに気づいた。

「空」はいつも頭上にあるにもかかわらず、一瞬たりとも同じ姿を見せることはない。晴れていても見える雲の姿はその日、その時間ごとに異なる。全天が鈍色の雲に覆われていても、雨が落ちてこない日もある。園児時代の俺にはそれが不思議だった。そして、その様、その振る舞いこそが「天気」なのだと教えられた。

「天気」の虫になってしまった俺は、とにかく「天気」に関する本を家族にねだっては買ってもらった。園児時代の俺が持つには大きく重いハードカバーの図鑑すらも手に入ったときはあまりにも嬉しかった。今も実家の自室に大切に保管されているぐらいにはその嬉しさは忘れることはない。

そして、転機は小学校時代に2度訪れる。

増えていく、推し

「天気」の情報収集に勤しんでいた小学校低学年時代の俺は、ある日こんなニュースを目にする。

『2009年7月22日、46年ぶりに日本国内で皆既日食が観測できる』

「空」を友としてきた俺にとってはあまりに衝撃的なものだった。お前にはまだ俺に見せていない姿があったのか、と。

そこからは「天気」にハマったように、ムック本を買ってもらって皆既日食がいかなる現象であるかを徹底的に調べ上げたし、それに付随して出てくる「天文現象」についての情報も拾い上げていった。

生憎、数年来の友であった「天気」に裏切られ、序盤の太陽が欠けていく姿をわずかに見られただけに留まるという結果になってしまったが、気がつけば「天文現象」の虜にもなっていた。

「天気」と「天文現象」が俺の中で共存してしばらくが経つ頃、第三勢力が思わぬ方向から出現する。

小学校高学年になり、遠足が社会見学へと名前を変えて初めて向かったのは史跡公園だった。当時、いかにも理系な分野に熱中している俺は半ば気だるげにその社会見学を過ごしていた。

バスで別の場所で移動中にも、車窓からある場所を紹介された。左手に見ながら傍を通過する小山は古代の有力な人物の墓、いわゆる古墳だそうだ。はじめは、そういえば授業でそんなのあったなぐらいの感覚だった。だが、数刻後に見えてきた景色がその意識を一変させた。

見覚えしかない、駅前の街道。

社会の授業でしか聞かなかった、どこか遠く思えた「古墳」という概念。それがあまりにも身近なところに存在していたというその衝撃たるや、俺が「古墳」を新たな推しにするには容易いものであった。

それからというもの、父に頼んで車を走らせてもらい、地元や周辺市町村、県外のありとあらゆる「古墳」を探訪し、記録するノートすら作った。少しでも道を間違えたら永久に戻ってこられないのではと思わせるほどの山中の「古墳」にすら会いに行ったこともある。今そのノートは実家のどこかにあるので具体的な数こそ覚えていないが、数百基にものぼっていたと思う。

ただ現地に訪れるだけでは飽き足らず、博物館に通うことはもちろん、数時間単位で図書館にこもって市史や発掘調査報告書を読み漁ってその「古墳」が築造された背景を妄想したり、調べきれなかったことや妄想の材料が不足していると判断した時は教育委員会生涯学習課に足繫く通い詰めてひたすらに問うたこともあった。

今思えば、あまりにも奇人である。声変わりもせず年端もいかないおぼこい顔の少年が、堅苦しい施設の一角に頻繁に顔を出すのだから。そんな絵面なんてどうかしている。

でも俺は、その時間が大好きで、愛しかった。

抱えきれぬ、推し

さて、自己紹介のつもりで書き始めたこの文章も、相変わらずの凝り性が祟って既に2000字を超えてしまった。こんな調子で自分史を紹介していてもキリがなくなりそうなので、数々の「推し」たちには申し訳ないがここで時系列別にまとめてしまおう。

■中学生
父の影響で「あさりよしとお作品」を本格的に愛読するようになる。その一環でなつのロケットを知り、「宇宙開発」にのめり込む。関連書籍を漁っているうちに萌衛星図鑑なる「擬人化系コンテンツ」を見つけ、それをきっかけに艦これにハマり始めたが、いつのまにかストライクウィッチーズやガルパンも見始めていて「ミリタリー」の魅力に憑りつかれる。高校生の時には何かと運が良く富士総合火力演習の観覧や護衛艦DDG-173・こんごう、潜水艦SS-593・まきしお、護衛艦DDH-183・いずもへ乗艦が叶ったぐらいには沼に浸かった。体力はてんで自信が無いので自衛隊には憧れず。

高校生
同級生との友好関係をほとんど築くことなくTwitter(現X)にて知り合った社会人オタクの方々と触れ合う。そのうちに「CHUNITHM」にハマり、音ゲー歴皆無ながら虹レに持っていくぐらいにはハマる。高校生後半、塾に頼らず現役で国公立大学を目指すというプレッシャーを課し続けるあまり潰れかけていた俺は、そのスプラッター描写で名高いエルフェンリートに出会ってしまい、「岡本倫作品」に手を出す。確かエルフェンリート1巻は九州工業大学のオープンキャンパスか前期試験の時に足を運んだ小倉のまんだらけで買った気がする。

大学生(イマココ)
高校の担任から示されていた、一切合切の情報を得ていない国公立大学に合格し、入学。どんな大学だろうとレポート課題はあるが、文章執筆力に自信がなかった俺はそのためにも何らかの執筆をしたいなと思っていた。そんなところにSCP財団の存在が飛び込む。それから+100以上の評価を得る記事を書けるに至るも熱は思いの外長続きせず、「推し」には至っていない。だがレポートの執筆はさほど苦ではなくなったし、ここまでの長文を書けるようになったのはこの経験の賜物である。話は逸れたが同時期、既に壊れかけていたメンタルに追い打ちをかけるようにコロナ禍が襲い掛かり、ついに瓦解。留年確定、休学決断。そんなお先真っ暗になってしまった状態だったが、未だ「擬人化系コンテンツ」の熱がくすぶっていた俺に「ウマ娘」という助け舟が訪れる。それが深淵たる沼へといざなう泥舟であることも知らずに乗り込んだ俺は、まんまと「競馬」沼にまで堕ちる。当然両親には訝しい顔をされたが、取り戻した目の輝きと共に俺が熱弁している姿を見て許しを得られた。この辺についての話はどこかで場を設けたい。投稿時現在、両親経由で幼少期から聞いていた「Mr.Children」がキている。

……これでもだいぶ簡潔に書いたつもりなので許してほしい。

ここまで「推し」を増やし並行して愛してしまった俺は、正直限界を迎えつつあった。楽しい、嬉しいという感情よりも先に忙しいと思い始めていた。何かを推そうとすると別の「推し」がやってくる。またある時ある「推し」に熱中している最中に違う「推し」が視野に入り、ここじゃないだろというタイミングでスイッチが入る。将来の職ですら「推し」関係をやりたいと言い出す。だがそれには「推し」の切り離しが必須である。かといって、ここまで俺の人生を支え、伸ばしてくれた「推し」に無慈悲なことなどできない。でも凝り性であるが故にどの「推し」も徹底的に深く愛したい。こんな相反する考えのCOLLISIONと葛藤を繰り返す日々。ワガママな性分。こんなんだから人を愛する余裕など微塵もあるはずがないし、俺は間違いなく恋愛には向かない質の人間だ。

うるせえな自己紹介のクセに駄文を書き連ねやがってつまるところ何が言いてえんだおめえは、って言いたい人もそろそろ出てくるだろう。書いてる俺がそうだ。

「推し」の数も、愛し方も、ほどほどに。

+@

勢いで立ち上げてしまったこのnoteは俺の「推し」についてのナニカを書き連ねる場を想定。現状は。

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