貸本漫画の発行部数 桜井昌一 辰巳ヨシヒロ 水木しげる「悪魔くん」「影」「街」

貸本漫画の発行部数は10,000部にも届きませんが、実際に「どの漫画」が「どれぐらいの部数」だったのか? 部数マニアには気になるところです。

桜井昌一さんの「ぼくは劇画の仕掛人だった」に、部数について詳細に書かれていました。

この本は市場にあまり出回らず、安くても5,000円はします。Amazonのマーケットプレイスで「在庫アリ」のときには、すぐに買う価値があります。

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わたしは運よく自宅近くの図書館に蔵書があるので、読みたいときは借りています笑

辰巳ヨシヒロと桜井昌一のデビュー作の発行部数

「劇画」の誕生に大きな役割を果たした短編集「影」の出版社は、日の丸文庫の八興。桜井昌一さんはここで「やまびこ先生」を発表し、貸本漫画家としてデビューしました。

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先にデビューしていた弟の辰巳ヨシヒロさんが、同じく八興で「七つの顔」を発表していました。

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二人の作品の部数について書かれています。

発行部数は「七つの顔」で七千部、「やまびこ学校」で四、五千部。

「やまびこ学校」とあるのは、「やまびこ先生」の誤植だと思います。

「七つの顔」の7,000部は、10,000部を超えることのない貸本漫画の世界で、かなり多い部数でしょう。「やまびこ先生」の4,000部が普通の部数です。

「影」創刊号と最高発行部数

「影」の創刊号の部数についても書かれています。

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※この写真は、小学館クリエイティブが2009年に復刻した「影」の創刊号のものです。

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「影」創刊号は1956(昭和31)年4月10日に発行。執筆メンバーは、さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、桜井昌一、高橋真琴、松本正彦、久呂田まさみの6名で、超豪華メンバーです。

発行部数について、「ぼくは劇画の仕掛人だった」からです。

発行部数は定かでないが、四千部以上ということはなかった。営業成績も大したことはなかったのだろう。社長や専務から、景気の良い話を聞かされるということもなかった。

創刊号は4,000部ですが、大きく伸ばしていきます。

世の識者の願いもむなしく、犯罪学校の教科書「影」の発行部数は、発売から一年ほどで九千部に達した。それ以上の増刷は貸本向け単行本の流通機構では不可能、というところまで独走したのである。東西のマンガ単行本出版社から出されていたマンガ本の二倍以上の成績だった。

「街」の発行部数

「影」の創刊の一年後にセントラル出版社から発売された短編誌「街」についても書かれています。

「街」の発行部数も、六~七千部で「影」を追っていた。

貸本店の経営と、どれだけの人に読まれていたのか? についても詳述されています。

貸本店は、「影」「街」を定価の八割ほどで仕入れ、一日十円で客に貸し出した。定価は百五十円である。一冊のマンガ本に少なくとも二十人の客がつかなければ、貸本店の経営はなりたたないことになる。したがって、「影」は十八万人、「街」は十四万人の読者を持っていたことになる。

貸本漫画が10万人以上に読まれるということは、「貸本店」がない現代では想像もつきません。まだ多くの日本人が貧しく、テレビの受信契約が100万台に達したのが1958(昭和33)年でした。貸本が手軽な娯楽だったのでしょう。

しかし、テレビの普及率が70%となった1962(昭和37)年には、貸本店も廃業が多くなり、貸本漫画の部数も大きく減っていきます。

佐藤まさあきの「佐藤プロ」の発行部数

同年、桜井昌一は佐藤まさあきと「共同戦線」をはり、出版社「佐藤プロ」を立ち上げます。

貸本業界が衰退していく中で、漫画家自ら出版社を立ち上げることにより、生き残りをかけたのです。

佐藤まさあきはトップクラスの貸本漫画家でしたが、部数は全盛期より大きく減っています。

ともあれ、ぼくが手がけた佐藤プロの第一回出版物は佐藤まさあきの長編で、発行部数三千部、資金倹約のための二色刷りカバーは少々おそまつだったが、精算時期がきても返品は一割に満たなかった。

貸本なのに返品があるのか? と疑問に思うかもしれません。これは貸本店からの返品ではなく、問屋からのものです。一般の書店にならぶ書籍などは、書店が出版社へ返品することができることになっています。ただ貸本店は基本、同じ本を一冊しか買いませんし、お客に貸すために本の補強をしたりするので、貸本店からの返品はないのです。

東考社版「悪魔くん」の発行部数

「週刊少年ジャンプ」で連載されアニメにもなった「悪魔くん」。水木しげるの代表作です。いろいろな出版社から発売されたタイトルです。

はじめに発売したのは東考社。桜井昌一が佐藤プロが軌道にのった後に一人で立ち上げた版元です。

桜井昌一が水木しげるにほれ込み原稿を依頼しましたが、全5巻の予定が売り上げ不振で3巻で終わってしまいました。

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角川文庫から復刻版がでているので、手軽に読むことができます。

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3巻そろった美本の場合、50万円近い値がつくプレミアものですが、それだけ入手困難という証拠です。

第一巻の「悪魔くん」は二千三百冊を刷り、そのすべてを取次店に納品した。通常のマンガの場合、取次店から版元への精算は三カ月である。納品後一カ月ほどで返品が出版社に来はじめ、一ケ月半ほどで最終的な成績の予測がだいたいつく。

貸本末期であり発行部数は2,300部でしたが、実売も伴いませんでした。

「悪魔くん」第一巻の最終的な実売数は九百二冊である。

1巻の部数が902冊であれば、2、3巻はもっと少ないのは間違いありません。

では、水木しげるが極端に不人気漫画家だったのか? というとそうではありません。人気のある漫画家でも、貸本店の数が決まっているので部数はたいして上下しないのです。

当時、初版で三千部以上の部数を配本できるのは、業界で五本の指にかぞえられる人気作家だけで、多くの出版社が基準とした刷り部数は二千五百だった。

人気作家で3,000部、普通で2,500部を発行し、返品もあるので実売はもっと少なくなります。この幅の中で、人気のあるなしが図られる厳しくもあり、不思議な世界です。

マンガ家の価値が、出版社の返品率の高低で測られるのは仕方がないことである。しかしその価値判断が、百部、二百部というおよそみみっちい数字で決定されるとなると、どうであろう。

いまの出版の世界もたいして変わりはありません。

賞を取った新人小説家のデビュー作の初版部数は3,000部ほどで、コンスタントに作品を発表している中堅作家は5,000部です。しかもこの初版部数のうち1,000部ほどは図書館需要です。一般の人が購入する部数はたかが知れています。

つまり、「人気が上昇した」と発行者にいわれて有頂天になり、あたりを睥睨する作者と、「きみは、もうだめだ」とけんもほろろに原稿の納入をことわられ失業する作者との実力の相違は、わずか二、三百部の販売能力の差に過ぎないということになるのである。

桜井昌一さんがサラリーマンを経て漫画家になり、出版社も経営したからこそ書ける言葉です。

小さな部数の世界は、さらに小さくなっていきました。

昭和44年になって、ぼくは国分寺市から府中市に移転した。そのころ貸本店はほとんど壊滅したといってよいほどの状況であった。もうマンガ本を発行しても、普通の作家のものでは、貸本向け販売ルートで千三百部の配本もできなかった。

「週刊少年サンデー」と「マガジン」が創刊したのは昭和34(1959)年。東京オリンピックは昭和39(1964)年。日本が敗戦から復興を遂げていき経済的にも豊かになるなかで、庶民に愛されていた貸本は終焉を迎えっていったのです。


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