はじまりの夏

言ってる間に夏が終わってしまいそう。
子どもたちが小中高と動きが分かれて、夫はサラリーマンで私は自営主婦で、それぞれの自由を尊重する仲間として生きていると、全員そろってどこかにということはもう不可能に近い。
だから、たまに夜みんながそろったときは奇跡のようで、他愛ない話をしながらごはんを食べて、ということが最高級にうれしいことになりつつある。

あとどれだけこのメンバーでひとつ屋根の下にいられるのかはわからないし、ずっといたいとまでは思わないけど、あれはあれですごいことだったな、いい仲間だった、と誰もがきっとどこかで思うと思う。
それって自分は生まれてよかったと思えるくらいすばらしいこと。

最近、「仲間」についてよく考える。
Netflixのデビルマンを観てなおさら、自分が、あの人が、ほんとうに危機的状況になったら、どう対応するのだろうとふんわり想像すると、ぜんぶ明らかになってしまう。
そのことで自分や誰かを裁くわけではない。そんな趣味も暇もない。
ただシンプルに私は私を信頼していたいし、体は違うことができない、そこだけは動かせない、それを愛と呼んでいいんだって、平良ベティーさんの佇まいを見てますます確信した。

娘と娘の親友の夏休みに引率。ふたりは小さな叶姉妹、末っ子はふたりに仕える小さなグッドルッキングガイのようであった。海は青くて広かった。