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LEE ALEXANDER McQUEENの聖地巡礼記

2020年、Lee Alexander McQueenの十回忌に彼のゆかりの地を巡礼する予定だった。しかし世界的なコロナウイウルの流行により頓挫。「いつか行けたらいいな」とぼんやり思っていたら一連のnoteのキッカケとなった事故に遭遇し、観念した。いいでしょう、逢いに行きますよ!

discourceという言葉がある。言説と訳されるが、コースを歩くと自ずと意見が形成されるという人間の認知の原理をたった一語で表象している。2000年以上安住の地を探し求め、彷徨い続けた人々に宿った鋭い言語感覚。
認知に対する反応である感情、それらが昇華された創作活動も地続きの問題として存在する。リーは「自分のコレクションは自伝的だ」と語ったが、つまり本人期の服や関連書籍といった形見、断片的なテクストを極東で蒐集していても、到達可能な理解度に限界がある。
彼が愛し、時に嫌悪さえした土の匂い、空や緑の色、街の喧騒を改めて知る必要がある。そうして初めて、最期まで癒えることが無かった彼の心の荒地を想像出来るようにきっとなるだろう。

Aby Warburgよろしくなイメージャリーの総当たり戦。リーが歩いた道のりをなぞり、その景色を目に焼き付けたい。この身体を通じてナマの温度とテクスチャーを知りたい。魂にその存在を刻み込みたい。

こうして史上稀に見るネッチョリとした聖地巡礼の旅が幕を開けた。

大学入学後、はじめて読んだ本が山口昌男『本の神話学』の僕にとってウォーバーグ研究所も聖地



1. スコットランド - 始まりと終わりの地

ロンドンに到着後、スコットランドのエジンバラへ直行した。レンタカーを借り、スカイ島北端のキルミュア墓地へ6時間かけてドライブする…
予定だったが、妻に計画をプレゼンしたところアッサリ却下されてしまった。曰く、「山登りだるい、崖いやだ、僕の運転怖い」。玉置浩二の合いの手のように激しく同意、断念した。実際、往路の機内でマックイーン本を読んでいたら突然泣き出してしまう程に僕の精神が滾っていたので、結果的に今回は見送って正解だった。死ぬ迄に訪問したい。*

エジンバラでは、マックイーン家のルーツがあるらしいスコットランド北部、ハイランドの歴史とその表象について理解を深めたく、エジンバラ城内の戦争博物館、国立博物館、国立美術館などを訪問した。

エジンバラ城から見たフォース湾。この雲


まず、どの施設もハイランド固有の歴史にほぼ触れていないことに驚いた。日本で言えば、アイヌ文化や琉球文化が等閑視されているという感じだろうか。
スコットランドは北部をハイランド、エジンバラやグラスゴーを含む南部をローランドに分けられる。地質学的には断層により、政治経済学的には1784年に施行されたもろみ法の税率区分(地域によって異なった)により境界線を引くそうだが、なかなかファジーな話ではある。実際、剣呑な山々に囲まれたハイランドの人々は複数の移民の混淆体で、「野蛮な」暮らしを各々が送っていたようだ。彼ら自身の手による歴史書の類も残っておらず、正確なルーツが不明らしい。国力をいやましに拡大するイングランドに隣接するローランドが安定した社会体制へ消極的に移行せざるを得なかったのとは対照的だ。

そういうハイランドは際立って特徴的な文化を醸成した。スコットランドと聞いてイメージするウイスキー、キルト、タータン、バグパイプはすべてハイランド起源。
これらのキャッチーな文化は大々的に紹介される一方で、日々の生活の中で実際に生産・使用してきたハイランドの人々の姿が全く想像出来なかった。
しかもスコットランドの命運を決定付けた<ジャコバイトの反乱>、悪名高き<クリアランス>といった重大な事件さえ日本の世界史の教科書のような記述。肩透かしを喰らった。

戦争博物館では、ハイランドが<大文字の歴史>に登場するのは19世紀半ば。近代的な武装化の流れの中で正規イングランド軍に組み込まれ、組織化される経過で取り上げられていた。背景の複雑性やハイランダーにとってのキルト、タータンの重要性には深入りせず、軍服にキルトを合わせたいかにもなイメージを並べるという不均衡さには首を傾げざるを得なかった。**

精巧な装飾具
"洗練された"ハイランダー


この歪さは国立美術館で一層強く感じた。時間的制約の中で見落とした可能性はあるが、ハイランドを描いた展示品のモチーフは、険しい山岳地帯と差し込む光とのキアロスクーロ、切り立った崖に佇む動物ばかり。画家の出身地は不明だが、超越的モチーフの偏向、やや大袈裟な演出、ハイランド住民の気配が漂白されている為、おそらくローランド人が抱く理想の自然のイメージが一方的に投影されているのではないかと思った。描かれた19世紀には、住民も自然も<正しく><統治された>ということだろうか。

図らずもスカイ島の風景画を見て思いを馳せるという、本来の鑑賞方法に


残念ながら、期待していたようにハイランドの知識を深める事が出来なかった。しかし、この強いられた沈黙こそ、リーが明るみに出した事実だ。彼はタータンリー(タータンを盗用する人またはその言説***)批判として、ハイランドの女性が受けた屈辱という二重の弱者の悲惨な出来事をテーマにしたコレクション、FW95「Highland Rape」、06FW「The Widows of Culloden」を発表している。
リーが指摘したイングランドないしローランドが差し出す政治的正しさに対する懐疑は、四半世紀過ぎてもなお棚上げにされたままで、United Kingdomとして一枚岩の歴史に編纂されているということを今回確認出来た。


スコットランドのオーラスはPrinces Street。映画『Trainspotting』の冒頭でEwan McGregorがダッシュしたあの道。たまらん。

豊かな人生、だが俺は御免だ


*スカイ島を統治していたのがMcQueen氏族。キルミュア墓地には、ジャコバイトの反乱を率いたチャールズ若僭王を戦況悪化に伴いフランスに逃した英雄、Flora MacDonaldも埋葬されている。

**ジャコバイトの反乱の鎮圧後、捕えられた人々の多くは死罪、流刑などの憂き目にあった。「人間狩り」のような邪悪なことも行われていたらしい。以降、ハイランドの士族制度は解体され、キルトとタータンの着用が禁止された。これをジェノサイドと呼ばず何と呼ぶのか。

***リーは頻繁にパンクとラベリングされたが、パンクのゴットマザーVivienne Westwoodはタータンリー、スコットランド文化を盗用しているイングランド人だとして批判した。



1. Leisham - 生まれた街

リーはロンドン有数の治安が悪いエリア、イーストエンド出身と名乗った。1990年代前半、依然として根強かった階級社会を逆手に取ったメディア戦略だったが、実はロンドン南部のLeisham生まれ。この街はロンドン中心部からは約10kmほど離れた場所、世界標準時刻線が通るグリニッジの南側に位置する。

Southeastern鉄道のLondon Brigde駅から一駅、Ladywell駅からLeisham Hospitalを徒歩で訪問した。都心部からLadywell駅まで電車で10分程度の距離だったが、風景は様変わりする。控えめで、古めかしい無人改札駅(事務所に職員はいる様子)から病院に向かう途中にある公園ではリスに遭遇。長閑で過ごしやすそうな場所。Leisham Hospitalは高層の建物を含む数棟から成り、地域に根付いた総合病院のようだった。ドクターとスタッフの皆さん、その節はサンキューです!

Ladywell駅
病院に隣接する公園
Leisham Hospital。アクスタ代わりのマックブック


バスで更に南へ20分ほど離れた生家を訪問する予定が逆走してしまい、中心駅Leisham駅に着いてしまった。だが、これにより気づいたことがある。
Leisham駅は路線の乗り入れ、分岐があるターミナル駅で、駅前には高層ビルが建ち並んでいた。そこから改めて生家方面へ向かうバスに乗車したのだが、始発から到着までの約20分間、ほぼ満席状態だったが白人が一人も乗車しなかったのだ。

生家はバス停のある大通りから脇道に入り、更に小道を二つ入った奥まった場所にあった。適切に手入れされている住居は少なく、木製の柵は所々削れていて、壊れかけのものも散見された。周囲には遊具やゴミが乱雑に放置され、庭は草生え放題。不条理系サスペンス映画の舞台として違和感がなさそう。露骨な治安の悪さは感じなかったが、明らかに観光客が足を踏み入れてはいけないエリアだった。

帰路はOVERGROUND鉄道のForest Hill駅を利用した。生家から駅がある大通りに出ると、行きのバスとは反対に白人の歩行者の割合が高かった。郊外のそれなりの規模の街において、道一本を隔てただけでここまで明白に視認できる社会格差は、日本ではあまり存在しないだろう。
個人的な予想だが、マックイーン家が住んでいたエリアは、1970年代から80年代にかけて政府主導で大規模な転居が推奨され、空いたエリアに有色人種が住むようになったのではないか(格差、貧困のレイヤーが変わっただけ)。

Forest Hill駅方面の大通り
生家に向かう小道。一枚目との違い
ようやく生家



2. Stratford - 育った街

リーが1歳になる前にマックイーン家はイーストエンド地区のStratfordへ引っ越した。悪妙高きその前評判から、イーストエンドは足立区のような場所で、罵詈雑言、軽犯罪の被害には確実に合う。腕一本取られても命が無事ならマシ…と覚悟を決めていた。奇襲に対応出来るよう猫足立ちでそろりそろりと歩みを進めていたのだが、予想に反してモダンなエリアだった。

と言うのも、この地区には2012年のロンドンオリンピックの際に、メイン会場のクイーン・エリザベス・オリンピック・パークが建設されたのだった。再開発の際に街が一気にキレイキレイされた(古くからの工業地帯で土壌汚染が激しかったとか。大丈夫だったのかマックイーン家)。
だが、南北を走る鉄道に沿って敷かれた幹線道路は、オリンピック・パーク、パーク内にある名門University College Londonの新校舎といったグレートなエリアと、古くから住民が住むエリアを東西で分割していて、まるで再開発の波を堰き止めているようだった。

幹線道路から見るStratford駅とオリンピック・パーク


取り残されたエリアにあるBiggerstaff Roadの自宅からは、引き続き貧しい印象を受けた。歩道の舗装や住居の外壁は所々傷んでいた。こまめに清掃している家庭は多くなさそうで、やや物騒な雰囲気。公営住宅だが敷地面積が狭く、8人家族が住むには相当手狭に思われた。

とはいえ、映画『McQUEEN : モードの反逆児』にも登場するあの家をナマで見る事が出来た感動は大きい。リーは2023年にENGLISH HERITAGEの表彰を受け、記念プレート(Blue Plaque)が壁に設置されていた。レンガとの綺麗なコントラスト。自然と清々しい気持ちになった。

裏手には庭があった。リーが飛び跳ねて転んで歯を打ったあの裏庭。そして庭の先には小さな草っ原と子供用のバスケットボールコートが併設された公園、その奥にはCarpenters Primary Schoolがあった。幼少期のリーがこの辺りを駆け回っている姿や、空を見上げて鳥を観察した姿を想像した。
住居の裏へ回ると、視界に入るものが急に小さくなるので、ミニチュアの世界というか、不思議の国のアリスの世界に迷い込んだような気分になった。

渋い風景
リーがリーになった家
Blue Plaque
渋い裏庭
草っ原と公園
Carpenters Primary School


小雨が降った後だったので、かたつむりがそこかしこを這っていた。Peter Greenawayの映画『ZOO』が頭を過り、そういえばリーは昆虫をモチーフに選ぶ事が多かったが、死との親和性のあるイコン、かたつむりは使用していなかった気がした。思い出したくない過去のフックになってしまうからかもしれない。

その後、Rokeby SchoolとWestnam Collegeを訪問するつもりでGoogle Mapにピンを打っていたが、微妙に遠い&交通の便が悪い&連日25,000歩超でだるい&どうせ普通の学校じゃん、という理由で訪問中止。信心深さが足りなくてごめん。


3. Savile RowとSOHO - 学び、遊んだ街

聖地巡礼の舞台はようやくロンドンの中心部に移る。
母Joyceからの後押しを受け、リーはAnderson&Sheppardに見習いとして就職した…が、多分疲労と風邪のせいで撮影を忘れてしまった。その後、サヴィル・ロー1番地にアトリエを構えるGives&Hawkesへ見習いとして1年だけ勤務。「同社のホモフォビックな雰囲気に耐えられなかった」とは本人の弁。堅固なファサードや分厚いドア、隙無く飾られたディスプレイは、伝統の重みと厳格さを隠すことなくアピールしていた。

Gives&Hawkes


リーが過ごした時間軸から一旦離れるが、1993年にBritish Council主催のファッション合同展にてFW93「Taxi Driver」を発表した五つ星ホテル、THE RITZはサヴィル・ローのそばにある。休憩でカフェだけでも、と思ったがスイングトップに軍パン、NIKE(本人着用モデル)という小汚いリーのコスプレではドレスコードの為入店出来ず。外観だけ撮影。
THE RITZからソーホーへは、Piccadillyを経由した。途中、FW94「Banshee」の会場として使用されたCafe de Parisという有名なナイトクラブがあった場所(廃業済み)を訪問した。現在はカジノになっており跡形もなかった。残念。

THE RITZ
TシャツはTAKAHIROMIYASHITATheSoloist.ですね


テーラー修行の後、リーは4つのアトリエでの勤務を経て、Central St. Matin'sのMAコース(修士課程)へ入学した。当時、CSMの校舎はソーホーのCharing Cross Road沿いにあった。現在は本屋。繁華街のそばにあった為、シャワー室が併設されていた5Fがハッテン場だったとか、中庭が物騒な理由で封鎖されたとか、かつてのロンドンのアート・ファッションシーンの<悪い場所>という側面も。*

CSM旧校舎

リーは旧校舎のすぐ側、Old Compton Streetでよく飲んでいた。ジュエリー・デザイナーでリーのショーチームにも参加したShaun Leaneと初めて出会ったThree Greyhounds、その対面にあるCafe Boheme。最もお気に入りだったパブは虹色の旗が掲げられているComptonsで、有名になった後も頻繁に訪れていた。**

夜のSOHO①
その②
その③


2001年にリーはLVMHからPPR(Gucciグループ、現KERING)へ世紀の鞍替えをするが、フィクサーはTom Ford(GQ紙のインタビューは必読)。Domenico De Soleとの本交渉の前にリーとトムは、レストランTHE IVYで密会した。同店はロンドン市内に複数の店舗を構えている。店舗を特定出来なかったが「二人ともパリピだから」と言うことでソーホー店で食事した。
ドレッシーなユニフォームを纏った、接客が上品な店員、アールデコ調のインテリア、大きな観葉植物。店内は非常に洗練されていた。一方で、騒々しい四つ打ちのBGMと止めどない人々の会話、怪しく光り輝く照明など、やや落ち着きを欠いていた。何となく場違い感。リーが生まれ育った貧困街から遠く離れたこのハイソな空間で、セレブに憧れつつも同時に葛藤していた彼のメンタリティを少しだけ理解出来たような気がした。

マッシュポテトはANAの機内食の方が美味しかったなんて言えない


*CSMの現校舎は、ハリーポッターの9 3/4番線でお馴染みのKing's Cross駅の北側にある。こちらもスケジュールの合間を縫って訪問した。入館証が不要なごく一部のエリアのみ散策しただけだが、施設が整っていて学びやすそうな雰囲気。事前アポイントを取れば同校のミュージアムに入場出来る(係の方が常駐している訳ではないのでアポ必須)。オンライン・アーカイブが充実しているので、興味のある方はこちらから

**オールド・コンプトン・ストリートを旧校舎から有名セレクトショップMachine-Aがある西側へ、パブやゲイ向けアダルトショップを通り抜けるといかがわしいネオンで照らされたJ.W.AndersonとHeaven by Marc Jacobsの路面店があった。突然のLVMH闇通りに思わず笑ってしまった。リーもこれ位不真面目だったらもう少し長生き出来たのかな。つーか、マーク大丈夫か。


4. Hoxton - 独立後に過ごした街

リーはCSMの卒業コレクションでIsabella Blowの目に留まり、スターダムに駆け上がった。だが、デビュー直後は失業保険を不正受給するほど貧しかった。イザベラの夫Detmarの母が保有するロンドン市内のフラットを当時の彼氏と転々とした後、Hoxtonに住み始めた。

居住者が運よく通りかかり、リーが住んだ2Fへの階段を見ることができた

交通の便が微妙なこともあってか?、当初引っ越しを躊躇ったらしい。だがアーティストが数多く住んでいるこの街に肌が合ったようで、Stratfordの実家を除くとおそらく一番長い期間住んだと思われる。今でも気の利いたレストラン、ギャラリー、インテリアショップやセレクトショップが点在していた。グラフィティも数多く、これまで歩いたどの街とも違う雰囲気。とはいえ、気取ったムードではなく。若き日のリーは、周囲の環境や同業者との交流から勇気づけられ、また創作の刺激をきっと受けただろう。

Hoxton時代のフラットメイト、Tania Wadeの姉Micheleがオーナーのパティスリー、Maison BertauxはCSM旧校舎そばのGreek Streetにある。リーはこの店が大のお気に入りで、誕生日パーティーを開催したこともある。小一時間の滞在の間、店は常に満席。客の回転が早く、常連がハグし合う光景を何度も目撃した。この古き良きラブリーな空間はリーの精神的な避難所になっていたのかもしれない。

オーナーの人柄の良さが伝わってくる
リーのお気に入りだったアップルデニッシュとアールグレイ



5. Mayfair - 最期に過ごした街

GIVENCHYのデザイナー就任、PPRへ株式売却を経て、リーは憧れていたミリオネアになった。そして一般人には理解し難い浪費行動を取るようになった。その一例がロンドン市内の高級住宅を頻繁に引っ越すというもの。個別の引越先とリーのメンタリティとの関連性は低いと判断して、彼が自死を遂げた高級住宅地Mayfairのみを訪問することにした。

自死の直前に、トム・フォードの活躍を祝すVanity Fair主催のパーティーがHarry's Barで開催された。当初リーは不参加の予定だったが、突如姿を表した。結局リーが生前最後に写真に収められた場となった。後にトムは「別れの挨拶を告げるために来てくれたのだろう」と語っている。
Harry's Barもオシャレ・ピープルがいかにも好きそうなレストランバーだった。サーフェスはキラキラと充溢していて、余白が存在しない。沈んだ気持ちで自宅から足を引きずるように赴いただろうリーの姿を想像すると込み上げてくるものがあった。

Harry's Bar
引用。この時の写真はどれも虚な表情


最後に過ごした自宅は超有名百貨店SELFRIDGESから徒歩数分のところにあった。賑やかな大通りとは打って変わって閑静な住宅地。四階建ての高級住宅。夕方過ぎ、どんよりとした雲が空を覆う中での訪問。
似たような外観の邸宅が道の両脇に規則的に並んでいるこの一画は、荘厳な墓地のようにも思えた。だとしたら、この家はリーの墓標か。この建築物はこの先も変わらず建っているのだろう。対照的に、ここで確かに生きて、暮らした人間はゆっくりと忘れられていく。人が生きて、死ぬということは一体どういうことなのか。何故人は苦しみながら生きていかなければいけないのか。何故死を恐れるのか。そんなことをあてもなく考えた。

聖地巡礼終了



6. 死後

リーの追悼式はSt Paul's Cathedralで開かれた。Bjorkの歌声が切な過ぎる。

飾られた空間と絶対的な死

存命中の2007年に設立した慈善財団SARABANDEは、母校CSMの学生に奨学金を給付したり、有望な若手アーティストにアトリエやギャラリーを貸し出している。
ちなみに「The Widows of Culloden」のオーラス、伝説的なKate Mossのホログラムが映し出されている際のBGMはJohn Williamsの「シンドラーのリスト」が選ばれたが、事前案ではMichael Nyman作の「Lee's Sarabande」が使用される予定だった。直前の楽曲変更は、ユダヤ民族とハイランダーの過酷な運命を重ね合わせるという意図があったとか、なかったとか。

SARABANDE



7. まとめ

聖地巡礼を通じて、リーがよく言っていたように「ファッション業界、制度にスポイルされた」ことを感度3000倍で体感出来た。不相応に大きい夢と強い欲望、それを実現出来るだけの傑出した才能と体力、暖かい周囲の後押しと時流。どれ一つ欠けてもALEXANDER McQUEENは成功しなかっただろう。この物語は奇跡としか言いようがない。そして運よく揃ってしまった以上、彼の死は予定調和でもあったのだろう。短い期間だったけど、彼と同時代を生きる事が出来て幸せだ。どうか安らかな眠りを。


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