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なぜ山に登るのか?を考えてみた

登山が好きだ、というと山登りではない人からは「景色の綺麗さ」や「登頂の達成感」について言及されることが多い。
それもある。それもあるし、実際絶景や達成感のために登る人も多いのだろう。
しかし、僕の目的は違う。
ようやく最近「山に登る目的」を言語化できた。

登山の楽しいところをざっと上げると

・登山計画とパッキングをしているときのワクワク感
・登山口に着くまでのワクワク感
・上りのハードエクササイズ感
・非日常感
・自然の美しさ
・晴天時の景色の綺麗さ
・雨天時のなんとも言えない神秘感
・ウェア、ギア、ザック、登山靴の性能確認
・登頂時の達成感
・山頂からの絶景
・山頂での調理、ギア使用感
・山ごはんの美味しさ
・下山時の没頭感
・登山口に到着したときの安堵感
・帰り際の温泉と、風呂上がりの一杯
・帰宅してからの片付け、洗濯、靴洗い
・ギアのメンテ、新しいギア探し、調達

つまり「全天候・全行程が楽しい」

しかし、僕にとってこれらは登山の副産物であり、本当の目的ではなかった。
本当の目的は、

「自己との対話」。

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山に行くと大量の「思考のアウトプット」ができる。

そんなの別に山じゃなくてもできるじゃないか、と思うのだが、山に登るようになってわかったことは、都会は情報が多すぎるということだ。
物が多いし、音も多いし、人も多いし、車や自転車が行き交うし、なによりスマホの電波が繋がる。
都会は想像以上に気が散る。集中がもたない。
集中を切りたくなる誘惑が多すぎる。

山には、山しかない。電波もつながらない。
一度山に入ったら、6時間は山しかない。考えるしかやることがない。
登って降りるにはひたすら歩き続けるしかなく、この間は一切思考から逃げられない。これはなかなか都会ではできない体験だ。

でも、「何もない田舎に行く」だけではダメだ。単にぼーっとしてしまう。
「何もないだだっ広い道を歩く」もだめだ。単調すぎて飽きてしまう。
なぜか「山」だから集中できるのだ。目まぐるしく移り変わる景色、アップダウンによる疲労感や高揚感も相まっているのかもしれない。

「考えごとしながら歩くと、都会より危ないじゃないか」と思われるのだが、なぜだか、都会の街歩きより各段に安全に、山は思考に集中できる。
普段悶々と悩んでいることが積み上がって行っても、山に行くと「ポン!」とポジティブな思考のアウトプットができる。

「自己との対話に集中し、思考をアウトプットして整理したいから」

これが僕がひたすらひとりで山に登る理由だ。
だから、飽きないし終わりがない。

わかる人いるだろうか?

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