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救いのない話 人間には覆せなくない?(2/3)

前回発した問い

歴史上、ヨーロッパの国々が南アメリカやアフリカを、植民地として支配をしたのはなぜか?なぜ立場が逆でなかったのか?

について、その究極の要因は、
「ヨーロッパのあるユーラシア大陸は、横長だったから。」
「アフリカや南北アメリカは南北に大陸が伸びているのに対し、 ユーラシアは大陸が東西に伸びていたから。」
というものでした。

その理由を、支配した側とされた側、ここではヨーロッパ人とアメリカ先住民のあいだに起こった出来事に着目することで、紐解いていきます。

なぜピサロはアタワルパを捕えることができたのか?

1532年、スペインの征服者ピサロは、現在のペルーを訪れ、インカ帝国皇帝アタワルパを捕らえました。
アタワルパは8万の兵士を従え、対するピサロが率いるは168人の部隊。圧倒的な兵力差にも関わらず、両者が出会って数分後には、アタワルパを捕らえていました。

いったいなぜでしょうか?

その要因を突き止めることで、ヨーロッパの国々が南北アメリカやアフリカ大陸の人々を征服できた理由に迫ります。
(ちなみにピサロは、アタワルパを捕らえた後、人質としてインカ帝国から身代金を取った後、約束を反故にして処刑してしまったそうです。)


直接の要因

ピサロがアタワルパを捕らえた直接の要因、それが本のタイトルである「銃・病原菌・鉄」です。
一つずつ解説していきます。

■銃・鉄
ピサロの部隊は、銃、鉄製の武器や防具、騎馬など、発達した軍事技術を有していました。
一方のインカ帝国軍は、石や木の武器防具の歩兵でした。
戦闘で明らかに優勢なピサロの部隊が、一方的にアタワルパの兵士たちを滅ぼしていきました。

■病原菌
なぜ、アタワルパはカマハルカ(ピサロが訪れたペルー北方の地)にいたのか?
それはインカ帝国が内戦で混乱中だったことに起因します。
スペインからの移住者が持ち込んだ天然痘により、インカ帝国で次々と人が死んでいる状況でした。天然痘の猛威は王位後継者にもおよび、次期王位をめぐる戦いが、アタワルパと親族の間で起き、それが内戦にまで発展しました。
天然痘の大流行がなかったら、ピサロは一致団結したインカ帝国軍を相手にしなければならず、負けていたかもしれません。
(なお、スペイン人であるピサロたちはすでに免疫を持っていたと思われます。)

■航海技術や造船技術、集権的な政治機構
なぜピサロはカマハルカに行くことができたのか?なぜ逆にアタワルパがスペインに行くことができなかったのか?
1つはスペインが、航海技術や造船技術を有していたことです。それゆえに海を超えてやってくることができました。
また、集権的な政治機構により、船の建造設備、乗組員の手配など、他の大陸に進出するための準備を整えることができたのです。

■文字
最後に文字の存在です。
情報は記述されることによって、口頭伝承と比べて、はるかに広範囲に、正確に、詳細に伝わります。

ペルーへの航海経路はもとより、戦闘の際もその影響が及んでいます。
端的に言うと、ピサロは"だましうち"をしたのです。
アタワルパに「友人として兄弟としてお迎えする。どんな侮辱も危害も加えるつもりもない」と使者を通じて伝え、広場に呼び出しました。
そこを待ち伏せして、一斉に襲いかかったのです。

これは、アタワルパがスペインの軍事力や策略について、何も情報を持っていなかったことに起因します。
ピサロは過去の様々な戦いの歴史や戦略の知識を有していたのに対し、アタワルパは海外からの侵略者の経験も知識も何もなく、あったのはスペイン軍を見た使者の口頭情報のみだったのです。

以上が、ピサロがアタワルパを捕らえた、つまりは、ヨーロッパの国々が南北アメリカやアフリカ大陸の人々を征服できた、直接の要因です。

直接の要因はなぜ生じたか

では、なぜ上述した直接の要因が生じたのでしょうか?
それは、ユーラシア大陸の方が、アフリカや南北アメリカ大陸に比べて、
「食糧生産が早く始まったから」
です。

次回は
・なぜ食糧生産が早く始まると、直接の要因が生じるのか?
・なぜユーラシア大陸の方が、食糧生産が早く始まったのか?
・どのように「大陸が横長であったこと」とつながるのか?
を解説していきます。



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