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フクシマからの報告〜2019年冬    佐野ハツノさんをしのぶ        原発事故から8年          事故当時を知る人々が        力尽き・病気になり・亡くなる現実

佐野ハツノさん(冒頭の写真)が亡くなった、とインターネットのニュースで知った。頭をいきなり殴られたような衝撃だった。しばらくパソコンの前で体を動かせなくなった。取り返しのつかない失敗をした。なぜもっと早く会いに行かなかったのだ。自分を責めた。2017年秋のことだ。

70歳。がんだったという。

ハツノさんは、福島県飯舘村で農業を営みながら民宿を開いていた。同村は、阿武隈山地の標高500メートルに広がる山村だ。福島市からクルマで約1時間。「飯樋」(いいとい)という集落からさらにクルマで10分ほど走った山裾の、美しい山林に抱かれた場所に、ハツノさんの宿「どうげ」はあった(宿の原発事故前の姿がインターネットに残されている)。

(下)民宿「どうげ」への道しるべ。文字がかすれて読めなかった。



2011年3月11日から始まった福島第一原発事故で吹き出た放射性物質のプルーム(雲)で、原発から約30〜50キロ離れた村は汚染され、約6500人いた村人は同年4月22日に全員が強制避難を命じられた。政府が「除染が終わった」と避難を解除したのは2017年4月である。6年間、村は無人になった。本欄で何度も述べた通りである。

ハツノさんも生まれ育った村から引き離された。夫の佐野幸正さん(72)やそのお母さんら家族とともに、約30キロ離れた福島市南部のJR松川駅近くにある避難者用の仮設住宅に住んだ。

原発事故が起きた2011年暮れから翌年1月にかけて、私はこの福島市松川の仮設住宅団地に何度か足を運んだ。それまで、無人になった村の様子を写真に記録する取材を続けていた私は、その自然の美しさの虜になった。そして、そこで生活していた村人の話を聞きたいと思った。原発事故前にはどんな暮らしがあったのか、知りたかった。

(下)佐野ハツノさん一家はじめ飯舘村の避難者が暮らしていた仮設住宅の団地(2011年12月、福島市松川で)



ハツノさんに話を聞こうと思った理由はこうだ。1989年に、飯舘村は「若妻の翼」という事業を実施した。農家の奥さんを海外に短期留学してもらい、違う国の農業を体験してもらう。ハツノさんはドイツの農家で3ヶ月生活した。スポーツ施設やコンサートホールといった「箱モノ」ばかり作りたがる地方自治体が多いなか、そんな「人を育てる事業」に投資する飯舘村は貴重な存在だと思った。

佐野さん一家は、ウシ数頭を飼い、コメ、ソバ、タバコなどを栽培していた。ハツノさんが農業体験のできる民宿を始めたのは、このドイツでの体験がきっかけだった。異文化体験がどうハツノさんを変えたのか、聞きたかったのだ。

事前の下調べでそこまではわかったが、ハツノさんにどう連絡を取っていいのかわからない。仕方がないので、仮設住宅団地をアポなしで訪ねた。その後も何度も仮設住宅を訪ねるのだが、ハツノさんと話す時間はなかなか取れなかった。挨拶だけ。玄関で立ち話。そんな何度めかの訪問で、やっと集会室の机でハツノさんと向かい合う時間をもらえた。2012年1月のことである。

当時私は拙著「福島飯舘村の四季」(双葉社)に次のように書いている。

 村人6000人が避難してしまった飯舘村では、家や店は空っぽになった。電話をかけても誰もいない。村人は、福島市などに数カ所ある仮設住宅に散らばって暮らしている。自分で借りたアパートや、親戚宅に身を寄せている人もいる。だから、佐野ハツノさん(65)に会うには、仮設住宅を片っ端からアポなしで訪ねるしかなかった。

 福島駅でレンタカーを借りて、郊外へ30分ほど走った。佐野さんが暮らす仮設住宅は、JR東北本線・松川駅そばにあると聞いた。国道の傍らにプレハブ住宅の列が見えた。すぐピンと来た。阪神大震災のときに見た仮設住宅にそっくりだったからだ。

 そこは工業団地の一角だった。灰色の、無機的な四角い平屋が等間隔で並んでいた。近くには眠ったような駅と、コンビニが一軒あるだけ。凍りそうな風が吹き抜けて行く。冬空の太陽がぼやけていた。視界には色がなかった。人工的なプレハブと、砂利の地面と、灰色の空。何もかもが飯舘村とは正反対だった。ニュースで見た「難民キャンプ」の映像が脳裏に浮かんだ。私は胸が痛んだ。

 昼時だったので、運良く佐野さんは自室にいた。おばあさんとご飯を食べるという。来意を告げると、ぶしつけに現れた私に「じゃあ、ご飯食べて行く?」という。「いや、遠慮します」と言いかけて、やめた。その純粋な笑顔を見たら、断る方が失礼だと思ったからだ。

 佐野さんと、おばあさんと私の3人でこたつを囲んだ。生姜味噌を乗せたほかほかのご飯を口に運んだら、思わず「うまい!」と大声が出た。佐野さんは「地元のお米だもん」とにっこり笑った。

 佐野さんが首から下げた携帯電話は5分に一回鳴った。行政と住民をつなぐ「世話役」なのだ。広い農家の一軒家で生まれて育ったお年寄りたちが、いきなり隣家と壁一枚の集合住宅に放り込まれたのだ。子どもの飛び跳ねる音が気になる。物音で眠れない。あまりの環境の激変に、みんな疲れ切っている。きっと佐野さんもそうだろう。しかしそんな気配は見せず、彼女は隣人たちの話をじっと聞いている。

 当時、私は感動した。いきなり押しかけてきた未知の記者にでも、笑顔で食事をごちそうしてくれる。何という心の清い人だ。そう思った。初対面でも好きにならずにはいられない人間的な力が、ハツノさんにはあった。農業委員など村の役職によく引っ張り出される。そんな話も首肯できた。

2012年夏「福島飯舘村の四季」が出たとき、私はハツノさんにも本を一冊送った。またお訪ねします。みなさんが村に帰る日まで、折に触れてお話を聞きに来ます。ご迷惑かけてすみません。そんな手紙を添えて。

しかしとうとう、ハツノさんにゆっくり話を聞く機会はそれが最後になった。いつ訪ねてもハツノさんは5分と座っていることができないほど忙しかった。無理もない。なにしろ世界史的な大事故に巻き込まれたのだ。山村で静かに暮らしていた人々が、世界中のマスメディアの訪問を受ける立場になった。私も飯舘村以外の原発被災地を取材して回ったり、山形や群馬などに避難している住民たちを訪ねる取材できりきり舞いになった。

時が流れ、2017年春に村の強制避難が解除されたとき、今度こそハツノさんを村の家に訪ねようと思っていたら、訃報が届いた。ハツノさんが亡くなったのは解除の5ヶ月後の8月だった。たった5ヶ月しか我が家にいなかったというのか。何ということだろう。

直腸がんだったという。避難が解除されたときは重い病身だったはずだ。あれほど待ちこがれた我が家である。数ヶ月でも、病院から出て、村で暮らせたのだろうか。黒いフレコンバッグで埋め尽くされすっかり変貌した村を見て、ハツノさんはどう思ったのだろう。そんな思いが次々に襲ってきた。

私は甘かった。8年という歳月は、ハツノさんぐらいの年齢の人にはそれくらいの重みを持っているのだ。

せめて、御霊前に挨拶がしたい。私が今も村の取材を続けていることを報告したい。私はそう願うようになった。それがようやくかなったのが、今年2月だった。

飯舘村をはじめ、原発事故被災地で私が接してきた高齢者層が亡くなったり、病に倒れたりしている。「もう疲れた」と「語り部」活動を止めた人もいる。福島第一原発事故から8年。老いる。病を得る。鬼籍に入る。8年という年月は、それぐらいの重みを持っているのだ。

 2019年2月、私はレンタカーを運転して佐野さんの家を目指した。

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