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原子力安全保安院 平岡英治・元次長  5年余の沈黙を破る 9時間インタビュー(中)

  2011年3月に起きた福島第一原発事故当時、原子力安全・保安院のナンバー2だった平岡英治・元次長のインタビュー2回目を公開する。平岡次長は、2011年3月11日の地震発生直後から原発対策のための本部に入り、同日午後7時過ぎからは首相官邸に詰めて菅直人総理、海江田万里経産大臣ら政治家職や班目春樹・原子力安全委員長(いずれも当時)と住民の避難策や暴走する原子炉への対応を決めるプロセスに参加した当事者である。その当事者が5年余りぶりに沈黙を破った。全部で9時間、8万字におよぶ詳細な証言の2回目を公開する。

 平岡氏の証言はいよいよ核心部分に入っていく。なぜSPEEDIによる避難は失敗したのか。なぜSPEEDIの存在すら海江田経産大臣に知らせなかったのか。なぜSPEEDIの予測は公開されなかったのか。その詳細が語られる。

 インタビュー中に平岡氏が示した福島第一原発からの通報ファクスの現物など資料も文中に掲載する。

(注:冒頭の写真は平岡氏がインタビュー中に示したSPEEDIの放射性物質拡散予想図。原発事故が進行していた当時の実物)

 今回も、5年以上出ていなかった新証言や、政治家・学者職の回顧録の修正を迫る重要なポイントがいくつかある。要点をまとめておく。

*避難範囲を20キロに広げるまでの首相官邸の意思決定に参加した。

*3月11日当日の夜8時半には政治家職に住民被曝の危険性を伝えた。

*斑目回顧録「平岡次長は『助けてください』と私に懇願した」は事実ではない。

*斑目回顧録「平岡次長は、私を寺坂院長に仕立て上げようとした」は不可能である。

*菅元総理の記憶は1号機と2号機を混同している。

*後の汚染図のような汚染の方角や範囲を予測することは不可能。「神業」だ。

*結局、コンパスで円を描いて、その範囲内はドンと全部どかせるしか住民避難の方法がなかった。

*10キロを超える防災が必要になるとはまったく考えていなかった。よってその外側の避難の準備はなかった。

*水素爆発そのものをまったく予想していなかった。

<平岡英治氏の略歴>

ひらおか・えいじ 1956年1月、岐阜県生まれ。

東京大学工学部電気工学科を卒業し経産省に入る。

*1995年12月 資源エネルギー庁 原子力発電運転管理室長

*1999年 資源エネルギー庁 原子力安全管理課長

(2001年1月 原子力安全保安院 設立)

*2001年1月 経産省消費経済部 製品安全課長 

*2003年7月 原子力安全保安院 原子力安全技術基盤課長(新設)

*2005年9月 原子力安全・保安院 首席統括安全審査官

*2007年7月 原子力安全・保安院 審議官

*2009年7月  原子力安全保安院 次長

(2011年3月 東日本大震災・福島第一原発事故発生)

*2012年9月 環境省審議官

*2014年7月 経済産業省官房付・退官

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