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フクシマからの報告 2018年晩秋その2  避難先に根をおろし料理人の夢を追う    野球少年中学生はいま結婚し父親に    渡辺さん親子の物語(上)

2011年3月の福島第一原発事故の直後に被災地に取材に入った当時から、ずっと連絡を絶やさない避難者が何人かいる。渡辺理明さん(48)はその一人だ。同年夏、山形県に避難していた福島県南相馬市の人たちを訪ねて回り、話を聞くなかで、渡辺さんと知り合った。

渡辺さんは、当時避難の宿舎として割り当てられた山形県寒河江市の温泉旅館の一室に私を連れて行ってくれた。8畳ほどの小さな和室に、渡辺さん夫妻と長女・次女・長男・次男の6人が生活していた。私の目にそれは海外ニュースで見た「難民」の生活そのものに見えた(下の写真は2011年9月、山形県寒河江市で。詳しくは拙著『原発難民』PHP新書参照)。

それから7年以上、私と渡辺さん一家の交流は続いている。

その部屋に二人の男の子がいた。

「お兄ちゃん」。父の渡辺さんは和磨君をそう呼んだ。当時小学生だった弟の勇磨君は「チビちゃん」だった(上の写真右)。

和磨君は南相馬市の野球リーグで活躍する野球少年だった。中学1年から2年に上がる春休みに震災と原発事故が起き、まったく予告もなしに、一人の知り合いもいない山形に転校することになった。

下の写真左側が2011年夏の和磨君である。冒頭の写真に7年後の姿が写っている。

渡辺さん一家はそのまま南相馬に戻らないことを選んだ。アパートを借りて、ずっと山形県に住んでいる。南相馬市で住んでいた家は原発から約25キロ。20キロラインの内側=強制避難の対象地域ではない。いわゆる「自主避難者」である。結婚して宮城県仙台市に移った長女を除いて、今も一家は山形市で生活している。

その後も、折に触れて渡辺さんから和摩君の様子を聞いた。野球の実力を認められ、山形県にある全寮制の強豪校に進学したこと。しかし1年生のとき、野球部の先輩に肩を殴られてけがをし、転校せざるをえなくなったこと。甲子園に行く夢はかなわず、高校を卒業したこと。

純粋な野球少年にも、人生の現実が否応なしに襲ってくる。たまたま原発事故の取材記者という立場でそれを目撃することになった私は、ハラハラした。大丈夫だろうか。悲しさや悔しさでグレたりしないだろうか。しかし私には何もできない。気をもんだ(実際には全然グレたりはしなかったのだが)。

2018年の夏、渡辺さんと電話で話した。

「実は、初孫が生まれることになりました」
「それはそれは、おめでとうございます。長女さんか次女さんがお母さんになられるのですか」

そう聞いたら、和磨君が結婚して子供が産まれるという。びっくりした。あのときの中学生が、いま20歳。結婚して父親になるというのだ。原発事故から7年という歳月は、それだけの変化をもたらすに足る年月だということを、私も改めて知らされた。

和磨君に話を聞いてみたい。そう思った。今まで、避難者たちの話は多数聞いてきた。しかしその子供たちの話はあまり聞く機会がなかった。親、特に父親が一家の代表として私に話すことが多かったからだ。親御さんを差し置いて話を聞くのもどうか。発言が元で、学校でまた妙なイジメとかに遭ってはいけない。そんな遠慮もこちらにあった。

その子供世代がもう成人した。結婚して父親になる。もう立派な大人なのだ。親とは別の一個人として、自分の意見を述べてもらってもいいだろう。

ふるさとで野球に打ち込み、チームメイトや友だちに恵まれて幸せに過ごしていた生活を失ったという点で、和磨君も原発事故で人生が激変した人間の一人である。その彼が避難してからの人生をどう振り返るのか、その言葉を歴史に記録しようと思う。

今回と次回の2回、渡辺さん父子の話を掲載する。今回は、長男の和磨君。父の理明さんの話は次回に書く。

和磨さんは、山形市内のラーメン店で料理人として働いていた。自分の店を持つ夢をかなえるべく修行している。

(写真は2018年10月27、28日に山形県山形市で筆者撮影)

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