見出し画像

菅直人・元総理がふりかえる福島第一原発事故最初の25時間(上) 地震後2時間半ですでに炉心露出寸前の危機 しかし総理に情報届かず

 拙著「福島第一原発 メルトダウンまでの50年」(明石書店)を取材する過程で「会って話を聞きたかったが、実現しなかった」一人が3・11当時の総理大臣だった菅直人・衆議院議員である。本の冒頭「3・11当日のロスタイム」という章で、2011年3月11日の地震発生から、翌12日の福島第一原発1号機の水素爆発までの約25時間に絞って、政府内(原子力安全・保安院、経産省、首相官邸など)の情報伝達で、どれくらいのロスタイムが生じ、それが周辺住民避難の遅れにつながったかを検証した。一度目の水素爆発では、30分差で双葉町の住民約300人が避難が間に合わず、原発から3キロの地点で降下物を浴びるに至ったことが取材でわかったからだ。そのロスタイムが発生したいくつかのポイントに菅総理がいたことが、その場に居合わせた関係者の証言でわかっていた。

「菅総理から見た3・11の現実」はどうだったのか、話を聞こうと、5年の間に何度か菅氏の事務所に連絡したが、返事をもらえなかった。そのうちに本の締め切りを迎えてしまった。非常に心残りだったので、出版後、本を一冊菅氏の事務所に送った。「出版後も取材は続けているので、お目にかかってお話を伺いたい」という趣旨の手紙を添えておいた。私は「誰をも非難・糾弾する意思はない」「原発否定派でも推進派でもない」「後世の歴史のために記録を残したい」「事故原因の真相はまだ究明されていないと考えている」などをこちらの意図として書いておいた。

 すると5月初旬、私の携帯電話に、知らない電話番号から何度も着信があった。返信してみると「菅ですが」と3・11当時の会見中継で聞き慣れた声がした。びっくりした。政治家、それも総理までつとめた人が、未知の記者に、秘書を介さず直接電話をかけてくるのはまれだ。それまで返事すらもらえなかったのに、である。

 菅氏は私の取材の要請に返事をしなかったことを詫びた。そして用件を言った。私の取材の意図を知りたい、ということがひとつ。そして、それに先立つ4月19日の衆議院環境委員会で菅氏が東電社長や原子力規制委員長らにした質問のことだった。それは、3・11当日の夕方には、福島第一原発が危機的な状況にある情報があったのに、総理に届かなかった、という話だった。この話はほとんど報道されていない。なるほど菅氏にも「まだ言いたいこと」があり、当時の権力の中枢にいた総理大臣にさえ「事故から5年やってやっとわかったこと」があるのだなと思った。

 インタビューしてみて、新たにわかった部分を要約しておく。(1)(2)は「メルトダウンまでの50年」で菅氏に話が聞けないまま残った「3・11初期25時間のロスタイム」の一部である。

(1)菅氏は、自分が「原子力緊急事態宣言」にサインをしなければ、原発周辺住民の避難が始められないことを知らなかった。そして総理のそばにいて、助言すべきだった原子力安全委員長や原子力安全・保安院長もそれを総理に教えなかった。その結果、避難開始が1時間以上遅れた。

(2)一度済ませた緊急閣僚会議をテレビ用に「やらせ」で繰り返し、約30分を無駄にした件について、菅総理は「自分が言い出したのではない」「誰が言い出したのかはよく覚えていない」と話した。

(3)原発では地震から2時間半後の午後5時15分には「燃料棒露出まで1時間」の情報があったのに総理の元には届かなかった。反対に同日夜「水位は燃料棒のうえ45センチ」という情報が伝わった。

 補足して説明しておく。

(1)総理大臣は原発事故の際、住民避難を命じる権限者として「原子力災害対策特別措置法」に定められている。総理がハンコをつかなければ、住民避難は始まらない。その「総理がハンコをつく場面」で菅氏が決済をしないまま与野党党首会談に席を外してしまったのはなぜか、という理由が不明のままだった。その理由を菅氏が語るのは初めてである。

(2)のテレビ用やらせ閣僚会議の話は、テレビ新聞報道でも、各種の事故調査委員会に報告にも出てこない。海江田万里経産大臣(当時)の回顧録「海江田ノート」(講談社)に出てくるのみだ。よって菅氏にこのやらせ会議のことを尋ねた報告も今回が初めてのことになる。

(3)総理に情報が届くまでには「原発→原子力安全・保安院→経産大臣→総理大臣」と複数のプレイヤーが介在している。そのどこで、なぜ、どのように情報のパイプが詰まったのか、一つ一つ精査しなくてはいけない。私が取材を続けている「どこで、どのように情報伝達が滞って、住民避難が遅れ、被曝と汚染を招いたのか」というパズルの、ピースの一つが(3)である。保安院や東電本店に届く前に、原発内部で死蔵されてしまった重要な情報がある、ということがわかった。

 菅氏のインタビューは、上下二回に分けて報告する。上で(3)、下で(1)(2)の順番になった。私が聞いた菅氏の話は史料として価値が高いと考えるので、音声から文字に書き起こし、できるだけ編集を加えずに伝える。背景などの解説が必要な場合は、文意を乱さない範囲で、私が注釈を加えた。

 インタビューは2016年5月20日と同6月20日の2回、東京・永田町の衆議院第一会館にある菅氏の事務所で行った。合計時間は約2時間半である。2回めは1回めの内容の確認や補足に近かった。特に注釈がない限りは1回めのインタビューを軸に書いていく。


ここから先は

17,542字 / 2画像

¥ 3,000

私は読者のみなさんの購入と寄付でフクシマ取材の旅費など経費をまかないます。サポートしてくだると取材にさらに出かけることができます。どうぞサポートしてください。