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放射能汚染で分断された街・富岡町からの報告 立入禁止区域内のほうが外より線量が低いという滑稽な現実

 2017年10月17日から20日まで、福島第一原発事故の被災地である富岡町から浪江町にかけての地域を取材に訪ねた。福島第一原発をはさんで、富岡町は南に約8〜14キロ浪江町は北に6〜12キロほど。どちらも事故直後に半径20キロ以内の「警戒区域」(全面立ち入り禁止区域)に入り、住民は強制的に避難させられた。

 富岡町の町民に全員避難の政府命令が出されたのは、地震・津波翌日の2011年3月12日である。多くの町民は数日で帰れると信じて、軽装のまま隣の川内村に避難した(その翌日さらに郡山市まで避難)。「財布と携帯電話しか持たなかった」という町民の話も多く聞いた。そしてそのまま6年以上帰れなくなった。

 私が見聞した限りでは、事故後6年7ヶ月という歳月が経ったにもかかわらず、富岡町も浪江町も、住民はほとんど戻っていない。街は地震で破壊されたまま雑草に埋もれ、風雨にさらされて朽ち、廃墟のように眠っていた。除染や復旧工事の関係者と車両ばかりが忙しそうに走り回っていた。

 今回は、そのうち富岡町の様子を写真を中心に報告する。富岡町は「サクラのトンネル」と呼ばれる桜並木(下の写真)や夜ノ森駅のツツジで有名な花のあふれる美しい町だった(2017年4月15日毎日新聞)


 富岡町は事故後6年を経てようやく2017年4月1日に立入禁止が解除された。条件は「除染が終わり、年間被ばく量が20ミリシーベルトを下回ることが確実になった」ことである。しかし、町北東部(福島第一原発により近く、放射性プルームの飛来による汚染が深刻だった部分)が立ち入り禁止(『帰還困難区域』と政府は呼んでいる)のまま残された。地図で見ると、長方形の町の右上4分の1がざっくりと切り取られたようになっている(下図の赤い部分)。この部分に住んでいた住民は今も避難生活を強いられ、自分の家に帰れない。

(2012年12月7日『福島民報』より)

 地図だけではわからないが、実際に富岡町を歩いてみると、この「立入禁止区域」の境界線は町の人口の多い部分、それも中心街のど真ん中をぶち抜いている。境界線は町の目抜き通りを通り、ショッピングモールやクリニックのある中心街を真っ二つに引き裂いている。住宅街の道路がいきなり立入禁止のゲートでちょん切られ、そこで行き止まりになっている。冷戦時代のベルリン市街を壁がジグザグに分断し、東側と西側を分けていた光景に似ている。息を呑むような光景が広がっている。

 道路の片側が立入禁止のまま雑草とクモの巣に埋もれて荒廃しているのに、反対側は作業服の復旧・除染作業員が平素と何ら変わりなく働いている。線量計をかざしても、境界線の内外で差はない。それどころか、立ち入り禁止区域の外の方が線量が低かったりする。手を伸ばせば届きそうな立入禁止区域に、誰かの「わが家」だったはずの民家が並んでいる。シュールすぎて、現実とは思えない光景がそこにあった。

 今回と次回は、その富岡町の様子を2回に分けて報告する。

(2017年4月1日現在。『福島民友』ウエブ版より)

 今回のフクシマ訪問では、富岡町から浪江町へ、国道6号線を南から北へと車を走らせてみた。国道は、今も立入禁止のまま荒廃した原発の立地町、大熊町と双葉町を通る。福島第一原発まで2キロ西の直近を通過する。原発から半径20キロの円内を走る約30分の間、周辺はいまも汚染で封鎖され、国道6号線だけが団子の串のように通過可能である。汚染がひどいので歩行者、バイク、自転車は通行できない。両側に、朽ちた街が広がっている。その様子も続けて書いていく。

(冒頭の写真は富岡町の中心街を分断している立入禁止区域の境界線。道路の右側が立入禁止区域。奥の突き当りで直角に左に曲がる。以下、写真は特記のない限り2017年10月18〜19日、福島県富岡町で撮影)

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