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『お金のやり取り』は、汚いことなのか?

僕らは何かモノが欲しい時、お金を支払って購入する。
誰かにお礼をしたい時は、お金で何かを買ったりそれで何かを作ったりして、感謝の言葉と共に相手に贈る。(現金の場合もあるけど。)
最近であれば、クラウドファンディングなどを通して、人を応援したり繋がりを求めてお金を出したりする。

それは全て価値を交換する行為といえる。
価値を交換したいとき、お金はとても便利なモノとなる。

しかし僕は、「お金は価値交換以外の役割もあるんじゃないか?」とぼんやり感じることがあります。

あらゆるテクノロジーが発展した現在、今までだったら価値と認められなかったものも、可視化して、お金に変換することができるようになってきました。
ぼんやりと見えなかった価値が、明確に〇〇円といわれるのは、新しい時代の可能性を感じつつも、感情を失うような不思議な感覚を覚えます。


よく「これにはお金にならない価値がある」と言われることがあります。
「たしかにそうだ。」と思いますが、一方でこの言葉には、以下のようなニュアンスを感じます。
お金をやり取りしない=美しい、お金をやり取りする=美しくない
実際はもう少し曖昧なニュアンスですが、少なくともこの感覚によって、お金をやり取りする難しさが生まれる気がします。

それでは、僕がそのようなニュアンスを感じるのはなぜか?


ぼんやりとだけど、お金というモノの再定義が必要なんじゃないかと思わされます。


言語の本質的な役割から気づかされた感覚


1ヶ月ほど前に読んで衝撃を受けた文章があります。
それは、昨年度の東京大学学位記授与式での総長告辞を書き出した文章です。

さすが東大。と言ってしまえばそれまでですが、
時代の流れを捉えた、とても知的で美しい文章に衝撃を受けました。

特に“言語”についての解説は、“お金”の再定義につながるヒントをもらえたような気がします。


“言語”とは、ヒトのコミュニケーションの歴史の末に役割をもったモノ。
そして、ヒトのコミュニケーションの歴史は、“毛づくろい”→“皮膚”→“言語”と役割が移っていったと語られています。

ヒトがサルと同じように体毛があった時代、“毛づくろい”は単に心地良さをもたらすだけではなく、社会性の維持や関係性づくりに重要な役割をもっているコミュニケーションツールだったのだそうです。

その後、ヒトが体毛を失ったあとは“皮膚“がコミュニケーションの役割をもったそうです。

皮膚には触覚以外にも、光のあたたかさや音の響きを感じることができ、中には、皮膚温の変化から、相手の感情の変化を読みとることができる人もいるそうです。
皮膚をセンサーとしてコミュニケーションをしていた、ということですかね。
今でも”肌触り感のある“という表現があるのは、その名残なのかもしれないと思いました。

そして、その役割は”言語“に受け継がれたそうです。
コミュニケーションツールとしての言語は、単なる情報の伝達をするだけではなく、毛づくろいや皮膚を通した触れ合いと同じように、感情や価値観を巻き込んだ、曖昧で多様な交流を支えてきた、とされています。
無色透明ではなく、曖昧で複雑な色がついているのです。

また言語には、映画の名シーンのセリフや昔口ずさんだ歌の歌詞を通して、過去の思い出や感情を呼び起こす役割もあるといえます。
それは、先述の”肌触り感“につながるものだと感じます。

コミュニケーションの道具として捉えた「毛づくろい」「皮膚」「言語」には、僕らが理解している感覚を超えた、感情や価値が存在するのでしょう。

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このコミュニケーションについての“言語”の話を聞いてから、ひとつ感じたことがあります。

それは、『お金も単に価値を交換するだけの、定量的で無色透明な役割だけでなく、コミュニケーションツールとして”毛づくろい“や”皮膚“と同じような、曖昧で多様な役割があるんじゃないか?』ということです。

同じ1万円でも、誰が誰に対してどのように渡したかによって、得られる感情や価値観が違うんじゃないかと思ったりするわけです。

毛づくろい→皮膚→言語→お金のやり取り

コミュニケーションツールとしてのお金


コミュニケーションツールとしてのお金の役割に気づいた時、ふと子供の頃観ていたドラマ「北の国から」のワンシーン、”泥のついた1万円札“のエピソードを思い出しました。

(「北の国から」をご存知ない方のために、Wikipediaを貼っておきます。すごい長いですけど、すごいおもしろいですよ。)


僕が思い出したシーンとは、田中邦衛演じる五郎の息子、純が富良野から東京へ上京する時の場面です。

五郎は決して裕福ではない生活をしている中で、純の上京の為にどうにかお金を工面して、東京行きの長距離トラックに純を同乗させてもらう事になります。
そして旅立つ時、そのトラックの運転手へお礼に封筒を渡します。
その封筒を受け取った運転手は、中に入っている”泥のついた1万円札“を見て、五郎が苦労して準備したお金であることを悟ります。
そして運転手は、純に「お前の宝にしろ。」と言って、その1万円札を渡します。

思い出しながら書いたので微妙に違うかもしれませんが、五郎と純の関係性、そしてその空気を感じとった運転手のやり取りに感動したのを覚えています。

この話自体はドラマであり、極端な例かもしれないですが、
五郎は図らずとも、お金で運転手、そして純とコミュニケーションを取ったのです。
そして、このお金のコミュニケーションは、純粋に美しいと思いました。

このお金には泥、いや、色がついている


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お金をコミュニケーションツールとして捉える。

そして、その中でも“色のついたお金”を感じとる。

これこそが、先述のお金に関するモヤモヤを解決するソリューションであり、『お金の再定義』を果たすものではないかと思います。

“色のついたお金”の要素は以下の3点に分けられると思います。

①価値交換ではなく、お金をコミュニケーションツールとして捉える。
②受け取った人が、主観的に感じる価値(感情や思い出)を呼び起こす事に意味を求める。
③できるだけお金のやり取りだけで表現して、言語は使わずにコミュニケーションする。(言語の替わりなので)

それによってやり取りしたお金は、
「お金をやり取りしない=美しい、お金をやり取りする=美しくない」
の感覚を覆すものになる。

お金を価値の交換の道具と捉えた時、お金は”所有すること“に価値を感じます。
お金をコミュニケーションの道具として捉えた時、お金は”やり取りすること“に価値を感じます。

そして、そこに美しい感情が乗っていれば、そのままお金のやり取りも美しさを保つように感じます。

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お金でコミュニケーションする方法


ここまでコミュニケーションツールとしてのお金の可能性について書きましたが、具体的にどうすれば良いのか?というところはこれから探求していく事になります。

そこで今試してみたい事があります。

『1〜4の数字にぼんやりとした意味を持たせ、それを組み合わせた金額を投げ銭する。そのお金のやり取りで、お互いにどう感じるのか検証する。』

そして、それを具体的に以下の流れで行います。

【色のついたお金のコミュニケーション】
まず、1〜4の数字に、ザックリと意味を定義します。
1 ⇒  (゚∀゚)
2 ⇒  ∑(゚Д゚)
3 ⇒  (≧∀≦)
4 ⇒  (T_T)
コミュニケーションを取るときは、この定義表を踏まえた金額を、相手に無言で投げ銭します。
そして、相手の反応やその後のやり取りを楽しむ。

以上です。


例えば、相手に133円送った場合はどうでしょうか。


単に横並びにすると、

(゚∀゚)(≧∀≦)(≧∀≦)

ですが、その順番によっても受け取る側の感覚は変わってきそうです。

もちろん周りの人間には、それの意味は全くわかりません。「133円あげたんだな。」としか思わないだろうし、感情を読み取ってみたとしても「楽しそうな顔文字が並んでる…。」ぐらいでしょう。
しかしそれはどうでも良くて、受け取った側がどう感じるのかが重要なのです。

相手との関係性にもよりますが、これが400円だったり、230円だったりでも感じ方は変わってくるでしょう。

ちなみに、定義するのが1〜4だけなのは、四捨五入の感覚で5以上の数字は数字として存在を意識しちゃうかな、という事と、0は桁を変える行為として意味を持っている気がするので何も割り当ててません。

この実験でどう感じるのか、そしてコミュニケーションとしてのお金の役割を生み出せるのか、楽しみです。


追記

この“色のついたお金”について、実験企画を立ち上げてみました。

ちょっと覗いていただけると嬉しいです。





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