ロバート・モーグの生誕日。

本日5月23日はアメリカの工学博士、ロバート・モーグの生誕日。34年にブロンクスで生まれた彼は、今から遡ること50年前、65年にモーグ・シンセサイザーを世に送り出した「シンセサイザーの生みの親」である。

幼少期からピアノを学び、同時に電子工学のオーソリティだったモーグ。学生時代にロシアの電子楽器、テルミンの自作キットなどを考案して販売していたアイデアマンだった。やがて60年代に地元コロンビア大学で盛んに行われていた電子音楽コンサート(実験音楽の一ジャンル)を体験。乞われてジョン・ケージのライヴ用の装置開発などに携わる。それまで放送局の設備を占拠し、巨大なパッチシステムで作られていた電子音楽の実験を、彼は家庭でもできるよう小型モジュールに収めた。真空管が主流だった時代に、アポロ計画、ベトナム戦争特需でサープラス部品が安価で入手できたことから、トランジスタを使って小型化。これが今日、シンセサイザーと呼ばれる楽器のプロトタイプとなる。この装置は発振器からアンプまで全ブロックを電圧制御しており、自由な配線によって思いもよらぬサウンドが鳴らせた。いわゆる「電子音楽の装置」から、「あらゆる音を模倣できる」魔法の楽器として、音を合成(シンセサイズ)する装置=シンセサイザーとして喧伝されていくことになるのだ。

初期の顧客のひとりが、ニューヨークのエンジニアだったウォルター・カーロス。彼がその特注品と8トラックのレコーダーで制作したのが、シンセサイザーレコード第1号と呼ばれる『スイッチト・オン・バッハ』(69年)。クラシックでありながら100万枚のヒットととなり、この一作でモーグはシンセサイザーの代名詞となった。当時のシンセサイザーはあの巨体から単音しか鳴らせず、一音一音重ねて組曲を構成したカーロスの労力が偲ばれる。

そのヒットを受け、初の量産型として生まれたのが、キース・エマーソン、冨田勲の愛機として知られるモーグIII。噂を聞きつけてジョージ・ハリスン、ミック・ジャガーらがこれを購入し、モンキーズ、ビートルズらのサイケデリック期のアルバムを電子音で彩った。やがて70年代に入ると、EL&P、クラフトワークらに使われ、プログレッシグ・ロックの発展に寄与することに。それに続き、鍵盤と音源をコンパクトな一体型ボディに収めたミニ・モーグを発表。71年にNAMMショーでお披露目され、これが正式に楽器業界にシンセサイザーがアナウンスされた第一声となった。スタジオの必需品として世界的に普及。スティーヴィー・ワンダーも初期のオーナーのひとりで、黒人音楽に果たした役割も大きいだろう。

日本での輸入第一号は、71年にモーグIIIを入手した冨田勲。羽田空港到着時、パッチケーブルとツマミだらけの装置を見て、これを楽器だと証明するのに1カ月も要したという「羽田税関事件」が古い冨田ファンの間で知られている。74年にはシンセサイザー組曲第1作『月の光』が完成。海外先行発売され、日本初のグラミー賞ノミネートを飾る話題作となった。

後発のメーカー、アープと2強として人気を争ったモーグだったが、ポリフォニック時代に台頭してきたオーバーハイム、シーケンシャル(プロフィット5が有名)の人気に推され、入れ替わりに事業縮小。創業者だったモーグは経営をアメリカ人に明け渡した。ちなみにスペルはMOOGだが、オランダ系なので自らはこれを「モーグ」と発音する。後継者時代、ヤマハが代理店をやっていた時期に「ムーグ」を商標登録したため、古い雑誌などの記事を読むと大半の表記が「ムーグ」。来日する度に「モーグ」と修正し、同社との対立を伺わせた。

とはいえ、モーグ社を去った後も信奉者は収まらず、2004年には伝記映画『MOOG(モーグ)』が公開。改めて楽器会社モーグ・ミュージックを再建し、ミニ・モーグの後継モデル「ヴォイジャー」を世に送り出した。晩年を過ごしたアッシュヴィルでは彼を慕うミュージシャンによる「Moogfeat」が開催され、10年前に逝去した後も賑やかなコンサートが続けられている。今年2015年春には、モーグIIIの後継機にあたるフラッグシップ機、システム55の復刻がアナウンスされたばかり。モーグ死すとも、その伝統は今に生き続けている。

(大人のMusic Calendarより転載)

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