#57 ススキノのナイトカルチャーけん引。『心を豊かに』昼でも楽しめる街づくり/有限会社アートライフ 澤知至さん #BOSSTALK(廣岡俊光)
北海道のナイトカルチャーをけん引している有限会社アートライフ。パリコレモデルなど多彩な経歴を経てクラブや飲食店を経営する、代表取締役・澤知至さんにエンターテインメントの重要性やススキノ活性化の青写真を聞きました。
■ 「先生で五輪」目指したスポーツ万能少年
―― 子どもの頃はどんなコでしたか?
スポーツしかやっていない子どもでした。父がアルペンスキーの日本チャンピオンということもあり、スキーをずっとやっていました。中学生の時は、陸上の大会出場を先生にすすめられ、中学3年生で初めて走り幅跳びの大会に出場しました。札幌の記録を作りました。
高校1年生時には、ハードル種目にも挑戦。走り幅跳びとハードルの2種目で全道優勝し、国体に出場しました。
将来は、先生をしながら、オリンピックに出場するという目標や人生の設計図がありましたが、高校生活の後半に背骨を折ってしまった。そこで、将来の目標が無くなってしまったので、「ぐれてやろう」と思い、ディスコでアルバイトを始めました。
―― 札幌市内のディスコですか?
「釈迦曼陀羅(しゃかまんだら)」「MAHARAJA SAPPORO(マハラジャ サッポロ)」「アルズ・バー」・・・札幌市内にあるディスコで、いわゆる“エリートコース”を歩みました。
■「オンリーワンに」モデルとして東京から海外へ
――そこからナイトカルチャーの世界へ?
いえ、全く違うんです。ホリプロタレントスカウトキャラバンの「第1回飛び出せ日本男児」というコンテストに応募したんです。細川茂樹さんや「笑っていいとも」に出演していた工藤兄弟がいて、彼らとともに最終候補の5人まで残ったんです。
その時に、東京のモデル事務所からオファーがかかり、モデルとして東京へ進出することになりました。
――当時の東京でモデルとして活動。華やかな世界でしたか?
華やかな世界でしたが、仕事がまったくありませんでした。日本中から東京に集まってくるので。
そこで「オンリーワンになるしかない」と考え、体を鍛えあげました。服が着れない、オーデションに呼ばれないぐらい鍛えてました(笑)。そうしたら海外からオファーがかかって、海外に拠点を移しパリコレにも出演しました。
―― モデルになって、世界がどんどん広がっていったんですね。
今の自分を形成しているのは、スポーツよりも海外での経験です。
ある時イタリアで、モデルの友達と2人で歩いていて、女の子と目が合ったんです。
僕は素通りしたんですが、その友達が「いま女の子と目が合ったでしょ。彼女たちはトモ(=澤さん)のことがカッコいいと思ったから見てたんだよ。振り返って見ていてあげようよ」と言ったんですよ。
「なんで?」と聞いたら、「彼女たちが振り返ったときに、僕ら男が背中を向けているのは女性に失礼じゃないか」と。その後、その女性たちが振り返ったので、手を振って、みんなでカフェに行ったんですよね。
日本のカフェというと、お茶を飲むだけの場所という文化ですが、イタリアでは夕方になると音楽が流れて、アルコールも提供されていて、ちょっと踊る感じで。
「カフェも時間帯で色々な形態に変わるんだ」と。そこで僕は今の仕事につながるきっかけのお店の名前に、必ず「カフェ」と名付けてけたんですよね。
■ 結婚し子どもが生まれ北海道へ「自然豊かで伸び伸び育てたい」
―― そんな生活から、再び北海道に戻ってくるきっかけは?
海外から東京に戻った時に「青山でクラブを買ったので、店長をやってくれないか?」と声をかけられました。店長として働くので、条件として「タレントの卵やモデルを従業員で使ってほしい」と伝えました。
従業員が全員モデルということで、某有名雑誌に取り上げてもらったり、見開き2ページでファッション雑誌に掲載されたり・・・お店はうまくいきました。
26歳の時に結婚して子どもができました。子どもは北海道で育てたいと思っていたので、そのタイミングで北海道に帰ってきました。
―― 子どもを北海道で育てたかった理由は?
東京では公園でボール遊びができないなど、さまざまな規制があります。僕は紋別市出身で、自然豊かで伸び伸びと遊べる街で子育てをしたいと思い、北海道に戻ってきました。
■「生活は豊かにできないが心を豊かにできる」
――北海道に戻ってからは?
東京から部下が6人ついてきてくれて、「フロールカフェ」というクラブをオープンさせました。
――お店は順調だったんですか?
帰ってきてすぐは、昔の知り合いが遊びに来てくれて、僕がいるときは店がにぎやかで盛り上がっていたんですが、僕が外に出たり休んだりすると「澤、いないんだ」と帰ってしまう。
自分一人では限界がある。僕は経営者でもあり、プレイヤーでもあります。自分の代わりになる人間を育てたり、連れてきたりするのが仕事だと気づき、そこからシフトチェンジしました。
――シフトチェンジには成功したんですか?
そうですね、時間はかかりましたけど。僕は昔から「一騎当千」という言葉が好きで。気付いたら、従業員1人1人が千騎分の力を持つくらいの人間になってました。当時から働いてくれている社員がまだいます。
小さいお店を買って、そこを任せる。クラブ以外にも焼肉屋やお好み焼き屋さん、レストランなど、合わせて10店舗を経営していました。
その中で、alife sapporoというハコを立ち上げたんです。実は立ち上げ当時、そこまでやる気は無かったんです。フロールカフェでイケイケだったこともあって、不動産屋から「300坪の大きなハコが開いているから見に来ないか」というお話をいただきました。
ただ、すごくお金が掛かるので、絶対に無理だと思っていたんですが、一応見に行ったんですよ。そしたら、僕のイメージが湧いてきたんですよね。
その時に経営していた飲食店を売却し、お金を集めてalife sapporoを立ち上げました。
僕らの仕事は、人々の生活になくてはならないものではないし、なくてもいいと思っています。音楽は家でも聞けるし、お酒やご飯は家でも食べられる。
わざわざ僕らの業種に来てお金を使わなくても、生活には困らない。ただ、皆さんの生活を豊かにすることは出来ないかもしれないけど、僕らの仕事は皆さんの『心を豊かにすること』はできる。そう思って、alife sapporoを通じて、僕らの業種を発展させようと想いやってきました。
■ コロナで報酬ゼロ…気づいた"エンターテインメント"の重要性
――コロナ禍の影響は大きかったですか?
新型コロナの感染拡大が始まったと同じころ、3月に「JOLIJO」というお店をオープンしました。告知もできないし、とにかく大変でした。
僕を含めて役員の報酬はゼロになりました。また、社員とアルバイトを150人ほど雇っていましたが、今後会社がどうなるか分からなかったので、会社に残るか否かをそれぞれに判断してもらいました。
――コロナ禍を経験して、今だから思うことはありますか?
「エンターテインメントは必要だ!」ということがすごく分かりましたね。コロナ禍で世の中全体が暗いニュースに包まれていたけど、お店に来たお客様はすごく楽しそうにしていました。
僕らの業種は「心を豊かにする」という部分で必要とされていると感じましたね。
――北海道で、ススキノで、これから発信していきたいことは?
ススキノは夜のイメージが強いと思いますが、昼に新たな動きをつくりたい。昼間も子ども連れで楽しめるマチにしたい。新しいこと、誰もやっていないことをやるのが好きなんです。
誰かの真似をすることも大切だけど、前例がないものに挑戦したいです。みんなと同じ考えでなくてはいけないなんて全く思わない。僕は僕なりに文化を作りたいと思っています。
■ 取材後記
誰もが目を止めるいで立ち、パリコレモデルの経歴など、どれをとってもこれまで出演いただいたBOSSとは一線を画す澤さんの存在感。みなさんも圧倒されたのではないでしょうか。
“ナイトカルチャー界隈”は、日常を過ごしていると「縁遠い世界」と思ってしまいがちですが、一方で国際都市やリゾートにはなくてはならないものでもあります。今後札幌が国際都市を標榜しマチとして成長していくために、国内外から来訪する多くのゲストを満足させ、滞在をより価値あるものにするために、必要不可欠な部分であることは間違いありません。
澤さんの唯一無二の経験が、これからの札幌に必要であることを確信しました。
<これまでの放送>
#56【株式会社 夏目】代表取締役 大坂智樹さん
#55 【株式会社Melever】代表取締役 佐藤麻紀さん
#54 【石屋製菓株式会社】代表取締役社長 石水創さん
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