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日本語学校の質保証とCEFRのA2について(3)

(1)(2)の続きです

今回は,法務省が募集しているパブリックコメントに関して,日本語学校の質保証に際してCEFRのA2レベルが妥当なのかについて書いてみたいと思います。

CEFRのA2とは

CEFRについては前回触れましたが、そこでCEFRには言語教育・言語学習の具体的なレベル設定(A1〜C2までの6段階)と,各レベルでできることの能力記述文(Can-Do Statements;CDS)が提示されていると書きました。この6段階は下から順にA1,A2,B1,B2,C1,C2となっています。

そして、欧州で外国語を用いて生活するために必要なレベルとして,threshold level(その敷居を超えればなんとかやっていけるだろうというレベル)が設定されており,6段階のB1レベルがこれに該当することも触れました。

今回の日本語学校の質的評価については、B1より一つ下のレベルのA2が基準となっています。この基準について、日本語学校の教育目的と学習者の多様性、そもそもどのくらいの学習時間がかかりそうなのか、そしてA2をどうやって測定するのかついて書いてみたいと思います。

ちなみにNHKの英語講座のレベル感では,A2は基礎英語3が終わったレベルとされています。ただし,読み書き能力については基礎英語ではあまり触れられていないと思いますので,単純な比較は危ないと思います。

日本語学校の多様性

日本語学校は多様です。設置形態は、学校法人、株式会社、NPOなどさまざまです。また教育目的もそこに集まってくる学習者も多様です。まず、日本語学校に通っている学習者は、その後も日本に住み続けるのか、それとも日本から出て行くのかというのがあります。全体としては、その後、日本で進学や就職をする人が多いと思います。また、すでに日本で仕事をしている人、生活をしている人が日本語を学んでいる場合もあります。

しかしながら、必ずしもそのような学習者ばかりではありません。中には、夏季休暇を利用してサマーコースに参加する学習者もいますし、1年間の限定で日本に学びにくる人もいます。日本で継続的に生活・就労する人のための教育の質を評価するのであれば、A2ではやや物足りないかもしれません。しかし、帰国を前提としている人たち、日本語も学ぶけれど、日本語だけでなく日本社会・日本文化との接触を目的として学んでいる人たちに対する教育の質という点では、B1以上を評価基準にすると、オーバースペックになってしまう可能性があります。誤解のないようにしてもらいたいのですが、日本語学校で日本語を学んでもA2レベルにしか到達しないと言っているのではありません。教育機関としてさまざまな学習者に対応する中で、トータルとしてその教育機関の評価を行うのであれば、A2レベルにとどめておくしかないのではないかと思います。

日本語学校の中には、言語としての日本語の学習はもちろんのこと、地域社会との接点を持ち、社会的文化的な学びを多く盛り込んでいるところがあります。このような教育機関は、「日本語力を上げるだけ」しかできない教育機関よりも優れた教育をおこなっていると言えると思います。

A2レベルに到達するのにどのくらいかかるのか

A2を一般的な初級終了レベルとして考えると,1日4時間で週5日のような集中的な教育条件下で,「聞く」「読む」「話す」「書く」の4技能にバランスよく目配りした場合,概ね300時間〜600時間の範囲に収まるのではないかというのが,筆者の経験的な感覚です。

300から600というとずいぶんと時間のばらつきがあるように見えますが,母語による影響が大きいと思います。学習者の母語と日本語の間に,文字,文法などのある種の類似性があれば,学習時間は少なくて済みます。また,学習内容についても,言語事項だけをひたすらやりつづけて「点数を上げる」だけの場合と,言語運用までを丁寧にやる場合ではずいぶんと異なります。

1日4時間週5日で1週間に20時間と考えると,およそ15週から30週の範囲でこのレベルに到達すると言えるのではないかと思います。そう考えると,日本語学校の質の保証としては,まあまあ妥当な線ではないかと思います。

ちなみに,以前関わっていた,経済連携協定(EPA)による看護師・介護福祉士候補者に対する日本語教育では,日本語能力試験の合格レベルが指標になっていました。半年,800時間弱の研修でN4レベル到達がだいたい8割,1500時間で,N3が7〜8割かなあという感じでした(あくまでも感覚値です)。

A2をどう測定するか

ところで,A2の測定方法が決まっていませんので,実は今回の議論はそもそも成り立ちません。測定方法も決まっていないのに,基準が提示されるというようなことがなぜ起きるのでしょうか。それは,外国人受け入れに関して,理念に基づいて法整備を行い,それを踏まえて制度設計を行うということと,外国人受け入れ拡大という現実に合わせて当面の政策を整えることとが同時並行で進んでいるからだと思います。本来,理念をもとに大方針を定め,それを踏まえて具体的な制度をつくるはずが,しばしばこの進め方について逆転現象が起きてしまうことによると思います。つまり,外国人に対する社会統合政策,移民政策がなく,細部の制度だけがパッチワークのように貼り付けられてしまうことの課題だと思います。

2013年に文化審議会国語分科会日本語教育小委員会課題整理に関するワーキンググループが発表した「日本語教育の推進に向けた基本的な考え方と論点の整理」の中に「論点3:日本語教育の標準や日本語能力の判定基準について」という項目があります。論点3では,日本語能力に関する議論に際して,CEFRの実践の成果や課題を踏まえて検討するのが適当であるとされています(p.11)。前回のブログ記事とも関連しますが,実は日本語教育の基準についてCEFRをベースに考えるということは,役所がいきなり言い出したことではなく,ワーキンググループのメンバーである日本語教育や外国人支援の専門家の意見として述べられているものです。

筆者も現在,文化審議会国語分科会の委員です。今年度のキックオフは今週金曜日,5月17日です。今年度,日本語能力の判定について,国語分科会日本語教育小委員会で議論する予定になっています。おそらく年末には,この件についてのパブリックコメントが募集され,それを踏まえて,年度末には全体像が確定するのではないかと思います。何のためにどのように測定すべきか,パブリックコメントや委員への働きかけを通して,よりよい方向をみんなで作っていく必要があると思います。これらの会は開催日の1週間ほど前に傍聴の申し込みができるようになります。

まとめ

外国人労働者受け入れの拡大が進む中で、日本語教育に関する制度設計が次々と議論されています。今まで,日本語教育の世界は、公的制度に乗っからない部分が多くありました。日本で生活する外国人のために、公的な言語保障の仕組みが必要だと言われてきました。一面ではその通りですし、言語政策もきちんと確立すべきだと思います。

一方で、国が日本語教育に関する制度を整備することや、日本に住む・日本で働く日本語非母語話者に日本語を強要することの「怖さ」にも十分に留意する必要があります。

日本語教育に関する法律が成立し,また日本語教育に関するさまざまな制度が整備されようとするとき、人々が、それを非母語話者の権利ではなく義務だと捉えるようになると怖いなあと思います。それこそ,CEFRの理念と真逆のものになってしまいます。

仕組みやルールが整備されることによって人々の生活が不自由になるのか,それとも充実して豊かなものになるのか,それは仕組みやルールのつくりもさることながら,ルールや仕組みの運用によるところが多いと思います。法律や制度ができるまでよりも,できてからの方がより重要ではないかと思います。

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