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日本語学校の質保証とCEFRのA2について(2)

先週の(1)の続きです

法務省が募集しているパブリックコメントに関して,日本語学校の質保証に際してCEFRを参照することの意味について書いてみたいと思います。

CEFRとは

まずCEFRとは何なのかについて,簡単に触れたいと思います。CEFR(シィーエフアール,セフアール,セファール)とは,Common European Framework of Reference for Language(ヨーロッパ言語共通参照枠)のことで,欧州評議会によって2001年に発表されたものです。一言で言うと,欧州における言語教育・言語学習のあり方についてまとめたものです。欧州には,さまざまな言語がありますが,CEFRは,それらの言語を尊重する「複言語主義」を理念として掲げています。また,学習者中心の教育のあり方や自律的な学習を重視しています。そして,このような言語学習における価値観や能力観を基にして,言語教育・言語学習の具体的なレベル設定(A1〜C2までの6段階)と,各レベルでできることの能力記述文(Can-Do Statements;CDS)を提示しています。さらに,言語学習の記録を残すためのポートフォリオも開発されています。現在,日本でCEFRが紹介される場合,A1〜C2のレベル設定とそれに紐づくCDSだけが,欧州の理念から切り離されて使われることが多くなっています。この点については,数多くの批判があります。

CEFRについては平高(2011)など

複言語主義とは

では,CEFRの考えの中心となる「複言語主義(plurilingualism)」とは,どういうものでしょうか。複言語主義を支える複言語能力とは,人々が複数の言語を用いて,間文化的(異なる文化同士で理解し合えるよう)にやりとりをする能力です。そして,ある言語を用いてコミュニケーションする際に,使用言語による能力だけでなく,母語や他の言語を使用したり学習したりした経験から得た能力を活用することが前提とされています。

CEFRで複数の言語を用いるという場合,必ずしも2つの言語を母語話者レベルで運用できることを想定しているわけではありません。欧州で生活するために必要なレベルとして,threshold level(その敷居を超えればなんとかやっていけるだろうというレベル)があり,6段階のB1レベルがこれに該当すると言われています。

このような複言語主義の背景にある思想として,以下の3点が挙げられます
・欧州における言語と文化の多様性と豊かさに価値を見出すこと
・人々が,欧州内で使用されている言語をよりよく知ることで,相互のコミュニケーション,相互理解,人の移動等を活性化できること
・今まで以上に欧州内での協調を実現していくこと
つまり,CEFRは言語教育・言語学習を通して,欧州の多様性と協調を重視するという欧州評議会の価値観を表したものだと言えます

日本語学校評価へのCEFR導入

日本語学校における教育の質的評価について議論する際,以下の3点がポイントではないかと思います。1つ目は,日本語教育を教育として位置づけ,明確な理念・思想のもとに教育活動が行われようとしているか。2つ目は,言語能力を幅広く捉えた上で,包括的な能力を育成しようとしているか。このようなことが議論され,検討されていないのであれば,「教育」機関と胸を張って言っていいのかどうか,やや疑問が残ります。そして3つ目は,「制度としての柔らかさ」です。導入に際して,多様な教育機関の今までの積み重ねをどのように生かし,教育機関や学習者の多様性,自由度をどれだけ残すかということが重要だと思います。この3つの観点から,CEFRの導入について考えてみます。

教育的な理念・思想について

すでに見たように,CEFRは言語教育・言語学習を通して欧州のあり方を考えるためのものです。そこには欧州評議会としての明確な理念・思想があります。したがって,言語教育に関する理念を踏まえた評価指標を導入するという意味では,CEFRを援用することの妥当性はありそうです。一方で,欧州の文脈による理念・思想というものを,どのように日本語学校に移入していくのか,ここについては議論が必要だと思います。

また,別の観点からも,なぜCEFRなのかという疑問が残ります。アメリカではACTFLが言語教育のスタンダードとして5Cを提唱しています。5Cでは,Communication,Cultures,Connections,Comparisons,Communitiesという5つのCが,言語教育を考える上で重要だと位置付けられています。そして,能力指標も出されています。カナダには,Canadian Language Benchmarksがあります。これらの先行的な取り組みを参照するのではなく,CEFRを選択する必然性はどこにあるのか,日本語学校の質的な評価におけるCEFR活用の妥当性について,もう少し説明がほしいところです。

言語能力の捉え方

CEFRに基づくということであれば,そのコミュニケーション観や学習観に基づくということですから,複言語主義に基づいた言語教育・言語学習が推奨されるということになるのでしょうか。具体的には,自律的学習がカリキュラムの理念的基盤にあるとか,母語と日本語双方の能力を積極的に活用した言語活動が行われようとしているとかが評価指標の背景として位置づくのでしょうか。もしそうであれば,とても意義深いことだと思います。

現在,政府のさまざまな仕組みでは,日本語能力試験(JLPT)の合格レベルを基準にしています。例えば,経済連携協定(EPA)によるインドネシアからの看護師・介護福祉士候補者受け入れでは,日本への入国許可要件としてN5が課されていますし,新たな在留資格である「特定技能」において「特定技能外国人が有すべき技能水準」として,日本語能力判定テスト(仮称)または「日本語能力試験(N4以上)」とされています。日本語能力試験は,このようにある種の基準として機能していますが,日本語能力試験がどんな理念にもとづいてどんな言語能力観を前提としているのかはほとんど明らかにされていません。このように理念不在の試験(ってまた敵を作っちゃうなあ 笑)を基準とするよりは,CEFRの方がよっぽどマシだと思います。

制度としての「柔らかさ」

日本語教育の分野でも,さまざまな評価指標が研究され,まとめられ,実践に援用されています。例えば国際交流基金のJF日本語教育スタンダード国際文化フォーラムの外国語学習のめやす東京外国語大学のアカデミック日本語Can-doリストなどがあります。これらの取り組みは,どれもCEFRを参考として行われているものであり,さかのぼっていくとCEFRにたどりつきます。

また,英語教育ではNHKの英語講座のレベル感がCEFR基準になっているなど,日本社会にこの基準が広がってきていることもあり,より多くの取り組みを包み込む基準としてはCEFRがフィットする面はあると思います。ただ,この3点目はあくまでも技術的なことである,基準を考える際の本質ではないことには留意が必要です。

まとめ

日本語学校の教育の質を評価するにあたってCEFRを基準に使うことは,一面妥当性がありそうですが,なぜCEFRなのかについて説明(場合によっては議論)が必要なのではないかと思います。そして,これらの議論の根幹には,本来,移民政策や社会統合政策があり,それに関連した言語政策があるべきです。枝葉の議論はわかりやすくおもしろいのですが,やはり日本語教育に関わる多くの人が,言語教育をなんのために行うのかという本質的な議論をもっと進めていく必要があるのではないかと思います。

A2レベルで妥当なのかという(3)に続きます

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