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暮らしと学問 1 学問というよろこび

(はじめに)20年以上にわたって学問をやってきましたので、読書は熱心ですし、文献を読み込み、それを精査して論文書いたりしています。すると「そんなに本を読んでばっかりで楽しいの?」と聞かれますが、まあ、「楽しい」ですよね。読書したり、幅広く言えば勉強したりすることの一体、何が「楽しい」のでしょうか? そのひとつを紹介したいと思います。


どうでもいいことを「知る」こと

 国語辞典編纂者の飯間浩明さんのコラム「街のB級言葉図鑑」(『朝日新聞』土曜版be連載)が面白く、週に1度の連載を楽しみにしています。4月20日付の記事は「わたあめ・わたがし」でした。「綿のようにふわふわで甘い」「なめると、消えるように溶けていく」「あの食べ物を、あなたは何と呼びますか?」というものです。

 屋台で定番のこのお菓子は、東日本では「わたあめ」、西日本では「わたがし」と違う表記で呼ばれるそうです。筆者も初めて知りましたが、東西での呼び方の違いは、この他にも沢山ありますよね。

 例えば、居酒屋で最初に出てくる料理を東日本では「お通し」と呼ぶのに対して、西日本では「つきだし」と呼びます。紙を壁に留める文房具を東日本では「画鋲」といい、西日本では、「押しピン」といいます。電気の周波数も違いしますし、挙げるとキリがありません。

 「どうでもいいことだ」と言ってしまえば、それまでです。しかし、「どうでもいいこと」を無視せずに、そのことを知ることが、学問あるいは勉強の出発点になります。まずここに注目したいと思います。

「知る」ことから「理解」へ


 では、物知りになるために学問あるいは勉強はあるのでしょうか? そうだとすれば、人工知能に人間は勝ることは出来ませんから、それは無益な営みとなってしまいます。しかし、そうではありません。

 先の記事では、飯間さんは、知ることの醍醐味あるいは次のステップを「こうした調査結果を、知識として知っておくのも大事ですが、実際に出合った時の楽しさは格別です」と指摘しております。要するに知ることを、自身のなかで咀嚼し、それと再び出会うなかに、学問や勉強の「よろこび」があるということです。それが「理解」です。

 飯間さんは、証拠写真を撮ったそうで、「今後も、旅行先で屋台を見かけたら、このお菓子の表記に注意してみるつもりです」とコラムを結んでいます。

暮らしと学問


 こうした「知る」ことから「理解」へのステップアップは何を意味しているのでしょうか? 私たちがこれまで積み重ねてきた学習や勉強といったものは、私たちの生活とは決して無関係であったり、あるいは、対立的に位置しているわけではないということ物語っています。知と生活は無関係に存在するのではありません。むしろ知ったことや学んだことを、自分自身の生活の中で生かしていったり、発見したり、あるいは再発見したりすることに、その意義があるのではないでしょうか。

 暮らしと学問は対立関係にあるのではありません。むしろ相互に影響を与えることで、知が生きた事柄へと転じ、生活がより彩り豊かなものへと開花する-- 筆者はそう考えます。

 表紙の写真は、職場近くの喫茶店のモーニング「玉子サンド」です。筆者は東京での生活が長かったので、玉子サンドといえば、ゆで卵をほぐしてマヨネーズと和えたものを挟むサンドイッチというイメージが強いのですが、西日本では、卵焼きをそのまま挟むのがポピュラーなんですね。これはその証拠写真です。


氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。