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書いてどうにかしたいのならば

犬のマルちゃんといると、やっぱりいいのです。たとえば、自分がどれだけ些細なことで思い悩んでいるのかと教えてくれたりもします。忘れかけていた感受性のようなものも取り戻せたりもします。まぁ、純粋にマルちゃんが好きなんでしょうね。いっしょにいると、いい時間を送れているという実感がします。

忘れかけていたといえば、この1ヵ月半ほど、自室のパソコンに向かえていませんでした。そうなんです、母が退院してくれて、自宅に帰ってきてくれたのです。それと同時に母との時間が増えた。まぁ、母の介護という時間が、ぼくの人生のワンピースに加わったのでありました。

何かを得ようとすると、何かを失うというのは自然の摂理ですが、自宅の1階で生活する母と共に過ごそうとすると(夜間のトイレ介助ですとか)、必然的にぼくも母のベッドのそばで布団を敷いて寝るのです。そしてトイレの訴えを伝えてくれるとぼくがちょっと助ける、ですとかね。

ぼくが小さいときなど世話してもらったことのお返しをしているつもりはほとんどなくて、みんなが思うほどホントに苦じゃないし、むしろ母の人生後半戦に関われてうれしい瞬間もあったりするのです。偽善的かな。まぁええか。

そしてまぁ本題ですが、ダイニングテーブルにもう一台のパソコンを持ってきてカタカタもしていました。書いて生きるのがぼくの人生の大テーマですから。でもなんていうのでしょう、アレ?アレレ?みたいな感覚がおさまらずに、どうにも調子がわるいのです。

「環境に左右されるな。」なんてこという人はいますが、ぼくは「環境に左右されるさ。」という考えの持ち主ですので、ははーん、2階の自室じゃないと書けないタイプかぁ、なんて思ってフムフム言っていたのです。

ただ書くだけなら誰でもできると思っていましたが、実は書くって精神と密接な関係にあるというのか、また、水中に潜って何か光るものを探すような身体性も必要というのかなんというのか。

それはまぁそうなんでしょうけれども、それでもなんとかしたいので、こうやってカタカタしているわけなのですが、ヒトの環境適応能力ってのぼくはちょっと信じていましてね。習うより慣れろということばにもつながるような、今の環境をおもしろがるというか、無理矢理好きになってやるといいますか。

マルちゃんへの想いの話に戻りますと、好きなら勝手に気持ちは向かいますしねぇ。好きなものはやっぱり好き。その感情は大切にしたいのであります。好きなら、それでいいじゃない。とも思いますしねぇ。

書いてどうにかしたいのならば、書かないと。
義務で書くのではなくて、むしろ中毒方向で。
蛇口をひねるように書けたらいいなぁと思いますが、それはまだ先の話。


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