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佐藤信人さん - ドイツ語に目をつけて海外への切符を手にした人


クリスタルキングを聴きながら

岐阜県大垣おおがき市の生まれです。父がニュース好きで、毎日帰宅すると、民放からNHKへとニュースをはしごしていました。新聞を踏んだり跨いだりすると叱られたので、子供心に「神聖」なものだとの感覚が植え付けられたようです。こうした体験が、今の仕事につながっているのかもしれません。

中学は、地元の公立に行くと坊主頭にしなければならないのがイヤで、名古屋の私立に進学し、中高6年間、片道1時間半ほどかけて通学していました。

大学で東京を目指したのは、とにかく地元を出たかったからです。何しろマックもない田舎でしたから。岐阜や名古屋の大学だと実家から通えてしまうし。当時大ヒットしていたクリスタルキングの「大都会」を聴きながら、東京に行きたい、東京に行きたいと思っていました。

大学では英文科に進みました。これでも、昔は英語がちょっとは得意だったのです。サークルは、アジアやヨーロッパの学生と交流するインターカレッジのISA(=International Student Association、日本国際学生協会)に入りました。海外で仕事をする未来をイメージするようになったのは、その頃からでしょうか。

1985年、私が新卒で入社したのは日本IBMでした。これからは情報社会だと思ったからですが、すぐに分かったのは、日本IBMの社員は日本のことをするのであって、海外に行く機会はないということでした。さらに、偉い人はアメリカから来ていて、本社がYesと言わないと何もできない仕組みも感じてモヤモヤしていたところ、妻が「受けてみたら」と渡してくれたのが、今の会社の既卒求人の新聞広告でした。

3年で辞めてしまった日本IBMですが、これまでのサラリーマン生活で、「もし自分が人の上に立つことがあるならこうなりたい」と思った唯一の上司に出会えました。広島・尾道出身で東大の数学科を出た、50代前半の部長です。

そのポイントは三つありました。まず「責任を取る」こと。部下のミスは自分が引き受ける。それから「外と喧嘩けんかをする」こと。上司が他部署にいい顔をすると、大変なのは部下です。そして「自分で仕事をしない」こと。自らやった方が早くて出来もいいに決まっているところを、人に頼らず自分で考えて工夫するよう仕向けられていたのだと思います。

退職を申し出た時は、「他の奴なら止めるけど、お前は止めない」と言われました。それは、「やりたいことやれ」ということだったのか、「お前にこの仕事は向いていない」ということだったのか分かりませんが、私は安心して前に進むことができました。すでに鬼籍に入られましたが、心から尊敬する上司でした。

報道記者のいまむかし

そして1988年、昭和最後の年の4月に時事通信社に入社しました。新卒と同じスタートラインです。まず配属されたのは「社会部」でした。

同年9月、昭和天皇が病に倒れると、業界の常套じょうとうとして皇居の門前や侍医長じいちょうの家の前に「張り番」が置かれました。マスコミ各社がそれぞれ、乾門・坂下門・半蔵門などの外にパイプ椅子を並べ、24時間・3交代で人の出入りをチェックするのです。

それが崩御まで約4ヶ月続きましたが、それまで外資系にいた感覚から「非効率だな」と思いました。マスコミ全社が同じことをしなくても、通信社である弊社が「全部やるからお金をください」と他社に提案すればいいのでは?と。

当時と今とでは、記者の仕事のやり方も変わってきました。最も感じるのは、ITをはじめとする技術の進歩です。かつて録音はテープレコーダーでしたので、巻き戻しも頭出しも大変で、記者会見やインタビューを再生して聞き直すと何倍も時間がかかります。そのため私は、語尾まで端折はしょらずメモを取る癖が付きました。

余談ですが、子供の学校のPTAでも家で妻に報告するために、先生の話を一語一句メモを取っていたら、周りのお母さんたちに「この人は一体、何者…?」と、怪しがられたこともあります。

最近は、録音した音声をそのまま文字起こししてくれるソフトもあるようです。便利な世の中になりました。

記者の働き方も変わりました。昔は土日でも急な呼び出しがあれば否応なしでしたが、今は、例えば地方で夜中に事件事故があれば、必ず誰かが起きている東京でまず対応して、必要なら後で連絡するというように、ライフワークバランスへの配慮が進んでいます。今の若い記者は、昔に比べて働きやすくなっていると思います。

セサミ育ちには勝てない!

弊社の新人記者は、東京で1〜2年勤務したら地方に行ってまた戻るというのがキャリアのパターンで、私も2年目の春から浦和支局(現さいたま支局)に赴任しました。ちょうど、宮崎勤の幼女連続殺人事件が世間を震撼させていた時で、夏に逮捕されるまで取材に奔走しました。

一方でその頃、ドイツ語の勉強を始めました。ベルリンの壁が崩壊(1989年)したころで、ドイツ発の重要ニュースが多く、学生時代の第二外国語で少し馴染みがあったので。そして何より、自分より英語ができる人は沢山いることに気付いていたからです。

特に「帰国子女」という存在。私が中学から何年も勉強してなおこの程度なのに、海外育ちの彼らは聞き取りも会話もサラッとこなします。「『おかあさんといっしょ』を見て育った人間は、『セサミストリート』を見て育った人間には絶対勝てない」と悟りました。

でも、ドイツ語なら、皆ゼロからのスタートです。そこで人事希望調査の語学欄に「ドイツ語」と書くことを目指し、浦和時代の4年間、NHKのラジオ講座を聴き、週に1回語学学校に通いました。当時は夜討ち朝駆けするより語学学校に通う方が、絶対に将来の会社の役に立てると固く信じていたのです。

そのかいがあったかどうか分かりませんが、1993年に東京に戻る時、希望の「外信部」に配属されました。

親と人事は選べない!

ところがそれから1年も経たないうちに、交流人事の第一号に選ばれて「外国経済部」に異動になったのです。

同じ海外ニュースでも、「外信部」が政治・社会・文化などを扱うのに対し、「外国経済部」は金融や企業、株式・為替市場などを扱う、似て非なる部署です。「経済に興味がないから文学部に行ったのに、なぜ私が?」という顔をしていたら、「いやいや佐藤くん、君はドイツに行きたいだろう。ドイツと言えば経済だから、今ここでちょっと勉強を…」と言われ。

その頃から、「親と人事は選べない」と達観するようになりました。

1995年の春、ベルリン赴任が決まりました。当時ドイツには、ベルリン・ハンブルク・フランクフルトに支局があり、それぞれ政治・経済・金融を担当していました。そして翌年には、ベルリン支局と統合したハンブルク支局に異動となりました。

実は、私がドイツに行く半年ほど前から妻がウィーンで働いていました。まだ子供はおらず、海外での単身赴任同士で、休暇には欧州のどこかで待ち合わせ、現地集合・現地解散ということもありました。この1回目のドイツ駐在では、コール首相からシュレーダー首相への政権交代やボスニア紛争後のサラエボを取材するなど、とても充実した日々でした。

そして、1999年の日本への帰任先は「外信部」だと思っていたら、また「外国経済部」でした。経済に興味ないのに。2002年には再び交流人事で、国内の「経済部」へ。人選に困ったときの人事に選ばれやすいタイプなんだと自覚しました。

2004年の暮れから、2回目のドイツ駐在となりました。今度はフランクフルト支局です。翌年夏、ドイツに転勤になった妻とまだ幼い息子と合流しました。保育園を何とか見つけたものの、急にドイツ語環境に放り込まれた息子は登園拒否状態に。毎朝、絵に描いたようにひっくり返って足をバタバタ。園長先生に抱っこされながら親の方を見て大泣きしていた姿は、彼が成長した今も忘れられません。

2006年夏には再びベルリン支局に。誕生したばかりのドイツ初の女性宰相メルケル政権やコソボ独立などを取材しました。ただ、妻も私も日本の組織から派遣された海外での共働き。しかも私は夜中に突然電話が鳴り、ベッドから抜け出して記事を書くことも。妻にも息子にも、本当に苦労を掛けたと思います。

2009年の3月、息子が小学校に入学するタイミングで家族揃って帰国し、またまた「外国経済部」へ。もはや足抜けできません。人の原稿をチェックするデスクの仕事をするようになりました。

2015年夏には、富山支局長に。海外畑から国内支局長に直接異動するのは異例でした。

支局長の大事な仕事のひとつは「営業」です。ずっと記者をしてきて営業研修を受けたこともない私には、要領やコツが分かりません。「はじめてのおつかい」の子供のようにドギマギしていました。

2017年に外国経済部長として東京に戻りました。経済に興味がないと言っていたはずなのに、部長までやることに。

ただ、ついに尊敬するかつての上司から学んだことを実践する時が来たのです。「責任を取る」「外と喧嘩をする」「自分で仕事をしない」…。3番目だけは完璧にできたと自負しています。「単なる仕事の丸投げでしょ」との鋭い指摘も聞こえましたが。

その後、2019年の夏から、秘書部長になりました。これも青天せいてん霹靂へきれきで、選ばれた理由も謎でしたが、それまで知らなかった会社の内情が、好むと好まざるとにかかわらず見えるにようになって学びの多い3年間でした。

そして、2022年の夏、現職・ロンドン支局長の辞令を受けました。

大陸と英国、そして日本

今の仕事は、支局長としての「管理職」、特派員として原稿を書く「記者職」、日本企業・団体の皆さんに会員や読者になっていただいている「時事トップセミナー」の運営や、ニュースレター「時事速報」の販売といった「営業職」の3つに大別されます。

やっぱり記事を書くのが好きなのですが、私以外に優秀な記者が4人いるので丸投げ、いえ、安心して任せています。管理職としては、東京への報告や会計、イギリス当局への届け出などやらねばならないことが案外多く、常に何かにせかされている気分です。ただ、お客さまと接する営業職は省けません。さまざまな機会を利用して、直接コミュニケーションを取ることを心掛けています。

単身赴任で週末は自由なのですが、出不精なので丸一日、ニュースやネットを見たりして外出しなくても苦になりません。

あえて挙げるなら、イギリスならではのパブ巡りは好きです。中庭もある静かな近所の店でのんびりしたり、新鮮なビールがちょっとだけ安く飲めるカムデンの醸造所にバスで行ったりすることもあります。

ドイツから眺めていた時、ヨーロッパの中でもイギリスは少し異質な印象でした。例えばドイツ人が「自分はドイツ人でありヨーロッパ人」と思っているのに対して、イギリス人は「自分はイギリス人。以上!」という感じ。

ロンドンだけを見てイギリス全体は語れませんが、やはり、他の国々がヨーロッパ全体のために多少の我慢もする覚悟があるのに対して、イギリスは自国で完結していることが多いように感じます。ブレグジットの後だから特にそうなのかもしれません。

同じ島国の日本も、イギリスに近い感覚があるかもしれません。日本は日本人にとってとても居心地がいいので、外国に行きたくない、出ていく必要がないという人が多いのはよく分かります。

しかし、日本人は日本人だけで生きていけますが、日本は日本だけで生きていくことはできません。

だからこそ、より多くの日本人が、若いうちに外国に出ていくことに挑戦して、仕事の幅も人間の幅も広げる機会をつかめるといいなと思います。知らないことを人に聞けて、失敗が許されて、反省が次に生かせるのは若者の特権ですから。

若い方には自分が得意で、そして努力が少しだけ苦にならない分野を見つけて、思いっきり世界を駆け巡って欲しいと思います。今日と違うはずの明日へ向かって。