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渥美泰典さん - ポートフォリオで生きる人


異国情緒豊かな横浜で育つ

1962年生まれです。日本の高度経済成長期を背景に、諸外国の軍事施設や中華街もある横浜で外国を身近に感じながら幼少期を過ごしました。

朝は必ずトーストにコーヒーという西洋好きな父の影響で、中学高校は大船の栄光学園へ。校長先生はドイツ人。各科目も、ペルー、スペイン、ドイツ、アメリカ、ブラジルなど、様々な国から来たイエズス会の神父先生たちから学びました。選択科目でドイツ語やスペイン語も学べる、1970年代当時としては破格の学校でした。私はその頃から英語が好きで、それを使って生きていく気がしていました。

ある授業でスペイン人の先生に「世界中で最も有名なポールは誰か?」と問われ、私は迷わず「ポール・マッカートニー」と答えました。すると先生は真っ赤になって怒り出し「正解はヨハネス・パウロです」とさとされました。スペインが公式にビートルズのキリスト発言*に対し抗議声明を出した時代でした。一方でアメリカ人の先生は同問題をおおらかに受け止めていたので、「欧米人でも国が違えば全く違うんだな」と思いました。

*1966年にビートルズが「僕たちはキリストより人気がある」と言って物議を醸した発言。ローマ法王庁が文書で許容したのは2008年

東大ではラグビー部に熱を入れました。農学部の実験とハードな練習との両立で日々の時間のやりくりは大変でしたが、最後には主将もつとめました。ラグビー・ネットワークは世界中にあるので、どこでも国籍や学閥を超えた仲間が自然とできる、アセットになりました。

英国国会議員クラブ(コモンズ&ローヅ)対 ロンドン・ジャパニーズ・ラグビークラブ、ベテランチームのマッチ。前列右よりのスーツ姿が林駐英全権大使、その左2人目が私(2022年)

24時間戦って過労死しかけた商社時代

1985年に三菱商事に入社しました。プラザ合意を機に日本経済がバブルに突入し、日米経済摩擦が激化。日本のサラリーマンが「24時間戦えますか」に突き進んだ時代です。

当時、同じ部署の四年先輩に現サントリー社長の新浪さんがいました。部内の若手勉強会でハリー・マコーヴィッツのポートフォリオ理論を一緒に読みました。

ポートフォリオ理論の基盤にあるのは「すべての卵を一つのかごに入れるな」という昔ながらの人類の知恵です。総合商社の幅広い事業を理解するための勉強会でしたが、それは後に身を投じる証券の世界にも通じる理論でした。ゴールドマン・サックスも、株式・債券・為替・コモディティー・M&Aなどの様々な部門があり、それぞれいい時もあれば悪い時もあるので、多角化させてリスクを抑え、全体のリターンを高める努力をしていました。個人の人生もまた、国境を越え、アセットクラスを多角化して、いろいろなリターンを出すのが肝心だと思われました。

配属先の畜産部の仕事は苛烈でした。私は冷凍ではないチルドの輸入豚肉をスーパーの棚に並べる仕事を担当していましたが、チルド商品の扱いは時間との戦いです。日中は国内の取引先との交渉に追われ、夜になるとアメリカが動き始めます。体力には自信がありましたが、世界中とのやりとりで寝る間もない中で、台湾豚肉が禁止抗生物質の使用で輸入禁止になるという問題が起きました。その後処理で、台湾の養豚業者・屠畜業者を点検して廻る出張で、業界特有の豚丹毒とんたんどく**に感染してしまいました。

**豚丹毒菌の感染による人畜共通感染症で、急性敗血症・亜急性の蕁麻疹型・慢性の心内膜炎型及び関節炎型に大別される。 死亡率が非常に高い。

働きすぎで免疫が弱っていたのでしょう。帰国の飛行機の中で手足がしびれ始め、なんとか辿り着いた家から救急車で搬送されて即入院。全身が激痛で、死ぬかと思いました。運良く処方されたペニシリンが効いて徐々に炎症は消えましたが、手足の機能が完全に回復するまでに半年以上かかりました。もう元のように働けないかもしれないという恐怖を感じました。

転機に掴んだ2つの幸運

酷い目にあいましたが、それは転機の扉でした。扉の先で私は2つの幸運を手にします。

ひとつは、死にかけたことで日本のサラリーマン社会から距離を置く決意をしたことです。リハビリがてらにINSEADインシアード MBAへの応募論文を作成し、合格。大手商社を辞めて私費留学でフランスに飛び出すなど、1989年当時は正気を疑われる大決心でしたが、その時誰も選ばない道へ進んだから今の私があります。MBAで出会った素晴らしい仲間は今も世界中で活躍しており、公私共に助けられる、かけがえのないアセットです。

フォンテヌブロー城のINSEAD同窓会(2022年)にて。同期のネットワークは仏英を中心に世界中に広がる。

INSEAD卒業を控えた1990年の春、ゴールドマン・サックス(以下GS)がフォンテーヌブローまでスカウトに来てくれました。当時、ロンドンオフィスで、アジア・日本への投資案件も扱える「仏・英・日」のトライリンガルを探しており、私がピッタリ条件にはまったのです。

もうひとつの幸運は、妻に出会ったことです。彼女は、病院で共に励まし合うリハビリ仲間でした。周囲の心配をよそに留学前に婚約し、数年後、車椅子から立ち上がれるようになった彼女がロンドンに会いに来てくれました。英国で2人の子供を立派に育てあげることができたのは彼女のおかげです。

世界中を飛び回った30代

レーガノミクス、サッチャリズムに続き、世界中で民営化が進んだ時代でした。日本ではバブルが崩壊し、JR、JT、NTTなどの株式放出が相次ぎました。私はGSに13年間勤めて、パリ・ジュネーブ・ミラノなど欧州各地を飛び回る証券マンとして、キャリアの基盤を築きました。

しかし、2000年代初頭にインターネットバブルが弾けると、GSは、顧客へのサービス提供を中心とするビジネスモデルから、自己ポジションによるトレーディングで稼ぐ方向に大きく舵を切ります。

私を採用してくれたアメリカの大ボス(Robert K.Steel)以下チームはほぼ全員が組織を出ることになりました。私も2003年にGSを辞め、顧客だったドイチェ・アセットマネジメントへ移籍しました。その後もロンドンを拠点に大手証券業界を渡り歩いてきましたが、一貫して日英間またはアジア・ヨーロッパ間の投資案件、買収案件に携わり、社会に意義のある価値創造をしてきたと自負しています。

永住組だから伝えられること

ところが、2019年に、故・宇沢弘文うざわひろふみ先生のお嬢さんが来英なさって、英国赤門学友会で食事会を開いた際にいただいた著書「人間の経済」を読み、私は衝撃を受けました。

その内容は、私が生きてきた金融の世界の学問的根拠ともいえるシカゴ学派と真っ向から対立するものでした。

「人間には心がある。すべての価値をお金に換算するシカゴ学派は、人間や宇宙の摂理に反する」というのです。その理論で、宇沢先生はノーベル賞候補にまで上り詰めたのです。

先生がご存命なら、今世界で起きている諸問題や、情報革命の潮流に対してどのようなお立場を取られたでしょうか。スティグリッツをして「ヒロの話は三十年後くらいにわかる」と言わせた宇沢先生の本を、ここに紹介したいと思います。

私は今、ロンドンのチャーリング・クロスから電車で35分のケント州・セブンオークスに住んでいます。2009年の英国赤門学友会創設に関わったメンバーは皆帰国してしまい、当時から継続的に居続ける理事は私だけになってしまいました。だから理事会やパブ会にはできるだけ顔をだし、伝えられることは伝えたいと思っています。

イベントはどうしても都心部に住む駐在メンバーが多くなりがちですが、色々な人がいるから価値のある同窓会(これもまたポートフォリオ理論ですね)。

永住組の方も、地方にお住まいの方も、都合の合う時にはぜひ顔をだしてください、つながっていきましょう。