安定を求めても、土台無理な話(変化や循環からは逃れられない)

仕事や生活とかが特にそうだけれど、人は安定を求めて生きている。

自分は安定志向だから、冒険とか変化とかはリスキーだから求めていないし、無難こそが理想だし、自分や家族が生涯平穏無事で、平和に何ごともなく生きていればそれが最高。

多くの人はそう思っているだろう。

もちろん私も例外ではない。


しかし、実際は、現実は、そうはなってはいない。


仕事の話に関して言えば、単純に「飽きてくる」。

人間って、飽きる動物なんです。

毎日毎日毎日毎日、ねんがら年中、朝から晩ま大して興味がないこと(場合によっては面倒だったり苦痛だったりすること)を、同じ場所で同じ仕事を、延々と繰り返し続けていて、人生退屈しないわけがありません。

よくも悪くも脱出したくなります。


このように言うと、

「いやー、仕事なんてそんなもんでしよ。しょうがないよ。みんなそうやって生きてるじゃん。」

なんて言う人もいるでしょう。


でも、そんな人でも、以下のことに関して同じことをし続けることはできるでしょうか?

好きなものを食べること。

好きなものを食べることは、もちろんみんな好きな行為です。

美味しいから、バクバク食べられます。

でも、胃袋がパンパンに満たされたとき、「もうムリ食えない」ってなります。

当たり前ですよね?

でも、考えてみてください。


あれほど「好きなものを食べたい」と思っていたのに、「もうムリ」ってなっている気持ちの180度の変化っぷり。

好きなものを食べたいのなら、ずっと延々と食べ続けていたらいいはずなのに。

ほんの30分くらいで、あんなに美味しそうにみえた目の前にある肉汁ジュージューのボリューミィなサーロインステーキが、うぷっ気持ち悪…もう見たくない…となるこの気持ちの変化。

安定志向で飽きにくい人でも、誰もがこういった経験をしています。


山に登ったとき

山登りは頂上を目指します。

登る前に、計画を立てている段階から、頂上からの景色を眺めてみたい!どんな景色がひろがっていて、それを見たとき自分は何を感じるのだろう?と、ワクワクと妄想が止まらないことでしょう。

また、頂上に立つ達成感とか、頂上に立てたときのその偉業は周りから評価され、称賛されるかもしれません。そんな嬉しさに対する期待もあったりする。

んで、実際に山へ行き、頂上を目指す。苦しい道のりを経て、頂上に到達する。嬉しい。雄大な景色に酔いしれ、達成感が満たされる。

ところが、その頂上には、大抵1時間も滞在しないのである。事前の準備から登頂にいたるまで、何週間も何ヶ月もの間、その頂上に立つ自分を妄想していたのにも関わらず、頂上には1時間もいない。

実際の頂上は、現実問題、大概寒い。そして風が強い。いくら景色が素晴らしくても、寒すぎて辛すぎて、居ても立ってもいられないのである。「うわ寒っ…はよ降りよ」となる。

風がなくて寒くなくても、しばらく頂上にいたら、なんか退屈してきて、そのうち時間とかも気にして、1時間もしないうちに頂上を離れてしまうのである。

よく考えたら変な話だ。

あれほど頂上に立つ自分を夢見ていたならば、1時間と言わず、丸一日頂上に立ち続けて夢の世界に浸ればいいのに。なんなら、頂上に住めばいいのに。

好きなことでも、ずっと同じ状態を保ち続けるのは難しい。

排泄するとき

上に食事の話を書いたのに、ここからは汚い話で誠に申し訳ないが…

あなたは今う◯こを我慢していたとする。

その瞬間のあなたが、今最もやりたいこと。

それは、「一刻も早くトイレへ駆け込み、パンツを下ろしてう◯こを出しまくること」である。

我慢を続けているときの脳内では、

「う◯こを漏らさないように肛門の括約筋に力を込め続けなければならない!」と思いつつ、「無事に持ち堪えた結果、トイレに入ってパンツを下ろし、肛門を全力解放して悦に浸っている、その瞬間」を妄想しているはずである。

その妄想は、自分が最も望んでいる状態であり、現在の自分の理想である。

理想であれば、その最高の状態は保っておきたいと考えるのが普通である。

つまり、「延々と、気持ちよくう◯こを出しまくりながら至福の時間に浸っていたい」となるはずである。

ところが、現実にはそれは叶わない。

必要な量のう◯こを出し終えたそのとき、あなたはあれほど望んでいた「気持ちよくう◯こを出しまくりながら至福の時間に浸っていたい」という理想の状態に、完全に飽きてしまうのだ。

延々とう◯こを出し続けるわけにはいかない。いや、そんなこと物理的に不可能である。

う◯こを気持ちよく出しまくるという理想の状態を安定させていたいと思っても、そんなことは無理なのである。

安定したくても、土台無理な話なのである。


安定したくても、人は変化せずにはいられない

ここまで書いてきて、元々自分が書きたい!と思ったこととは、やっぱりなんか違うような気がする。

上記の例えが、「安定した人生を望んでも、所詮飽きるし、同じ場所にとどまることなど不可能なのだ」という自分が伝えたいことの例えとして、適切だったのかどうか、もはやわからない。あまり当てはめるのに適切じゃなかったかもしれない。ましてや、う◯この話とか、かなり的外れなような気がしている。こうやって書き出すことによって、はじめてわかる自分の思考と文章の稚拙さよ(涙)。う◯この話など、まして40代の中年がこれ見よがしに語り出すような話ではないことは、重々承知している。大変申し訳ございませんでした。

文章を書くって、やっぱりムズカシイネ。

とはいえ、書き出すことで、自分が頭で考えていたことが記録として残るし、思考も整理されて徐々にブラッシュアップされてゆく感覚を覚える。書くって大事ね。これからも閃いたことがあったら、このnoteでとりあえず思考をアウトプットしてみようと思う。

というか、まとめに入るはずなのにいきなり脱線してしまったけれど、そういうことだ。安定したくても、人はその場に留まっていることなど出来ないのだよと。

安定しているように思えるその土台だって、いつ崩れるかなんてわからないよ。

当たり前にいつも近くにいる大切な人も、突然自分のもとから立ち去ってしまうかもしれない。

自分が好きだと思っていたことも、来年には好きじゃなくなっているかもしれない。

今は八方塞がりで、何もかもがもうダメだと絶望していても、来年には環境が変わって完全復活しているかもしれない。

今はコロナ恐慌で、多くの人が亡くなっているし、世界的に経済が大混乱しているけれど、これだって永久に続く訳じゃない。いずれは終局を迎え、その後は徐々に復活してゆく。それが世の中の循環ってもん。

だから、自分自身に置き換えて考えてみても、今の状態を維持しようとしても、いずれは何かが変わってしまうもの。自分の全身の細胞も、2ヵ月くらいで全部入れ替わっていると言われたり言われなかったりしている。変わることを惜しむよりは、むしろ積極的に変わっていこう。変わりたいなら、すぐに変わっていこう。そんなことを思うある日の昼下がりなのであった。




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