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新作について(創作版画)

前回の記事を書いた時、私の念頭にあったのは、これからはもうちょっと収入のことを考えて仕事をしようということでした。
(以下、カッコ内は本題とは関係ない話が少し長くなりますが言わせて下さい。私はこの数年来、採算を度外視した復刻版の制作をして来ました。伝統的な復刻には根本的に様々な矛盾が横たわっていると思われたからです。しかしそういった私の問題意識は基本的に人から理解される類のものではなかったように思います。それは殆どの人にとって想定し難い問題のように思います。専門家含めです。
私にもなぜ一流の人達が昔からやって来たことに、ごく初歩的な段階で矛盾や不正が生じてしまうのか、かなり長い間わかりませんでした。
それに対して今思うのは、現代の彫師摺師の技術や材料についての知識には明治時代以降に確立されたものもかなり含まれているということ、復刻には明治時代以降に確立された"新たな伝統"としての側面があるということ、江戸時代と同じ浮世絵を再現するというようなことは本来的に彫師摺師の腕の概念とは違うということ、またそういったことが認識されるほど復刻版に対する調査研究と理解が発達して来なかったということです。そしてそういったところから必然的に矛盾や不正が生じるのだろうということです。
そういった私の見解はさて置いとくにしても、何より作品の比較観察をして欲しいです。 そして復刻版の初摺とオリジナルの初摺とでは素材(絵の具や紙)や技術のクオリティ(線の欠けや乱れ、色の位置ずれや掠れ、等々)の点で何が違うのかということを認識して欲しいです。それは結局のところ復刻版を理解する上で、とても重要なことと思われるからです。
特に復刻事業に関わる研究者や科学者の人には、基礎的な確認事項として、そういった復刻版とオリジナルの相違点を作品の比較観察から明らかにして欲しいです。また復刻に対する彫師摺師の理論面に対しても検証の目を向けて欲しいです。最新の機器で原画の線を丁寧に写し取り、原画と同じ線を彫ると言いながら、結局は意図的に線の修整が行われるのはなぜなのか?なぜオリジナルの絵の具や紙に対し関心がないのか?その背後にある理論に対して検証の目を向けて欲しいです。
江戸時代の浮世絵を蘇らせることが出来ない根本的な原因は、現代における素材の不足でも技術の不足でもなく、復刻事業の従事者間で概念や理論が整備されてないところにあると私には思われます。素材の点でも、彫り摺りの技術のクオリティーの点でも、改良品としての浮世絵作りになることが最初から決まってるような制作理論を採ってるところに、原因のほとんどがあると私には思われます。
本題とは関係ない話が長くなりました。私は19歳の頃より木版画制作を始め、いつかは本当の意味で浮世絵を蘇らせたいと思いつつ、その後摺師になりましたが、そういったことは伝統的な復刻の概念や理論とは違うことでした。その後摺師を辞め、そういったことに個人的に取り組みましたが、それは経済的に成立させることが困難な事でした。それで昨年をもってそういった活動に区切りをつけることにしましたが、これまでの活動の区切りとして、言い残してたことがこういうことでした。)

本題に戻ります。それでこれからはもうちょっと収入のことを考えて仕事をしようと思った時、そういうことならば復刻よりも、創作としての現代版浮世絵や現代版新版画のようなものを作った方が、まだ見込みがあるように思われました。近年様々な版元さんでそういったものが盛んに作られています。 それで私もそういったものを作ってみようと思いました。
それで何を作るかという話なのですが、私は以前から下の写真のような、20世紀に入る頃より盛んに作られるようになった古い写真絵葉書、こういったものをもとに木版画を作ってみたら面白いものが出来そうな気がしていたので、今回それを実行に移すことにしました。

今回のコンセプトは「ノスタルジックで美しい版画」を作るということです。 私にとって浮世絵や新版画の魅了の一つは、古い時代のものが描かれていることであり、古い時代への郷愁があります。 その意味で今回のように古い時代のものに題材を求めることは、私には好ましいことに思われました。 またそれ以上に重要なことは、美しい版画を作るということでした。始めに今作の経緯として収入のことに触れましたが、そのためにはやはり人々の喜びになるような、美しい版画を作るべきだと思われました。
実際のところ、これまでの私の復刻の活動にはそのような概念は希薄でした。美しい版画を作ることと、江戸時代当時の浮世絵を徹底的に再現することは、私からすると本質的に別のことのように思われたからです。

原画について
今回はこちらの絵葉書を元に下絵を描きました。 この絵葉書がいつ頃作られたものなのか定かではありませんが、消印が1939年なので大体その頃に作られたものなのでしょう。

材料について
版木について、主版には安手の桜を、色版には桂とシナベニヤを用いました。 作品の表現上、並びに多くの枚数を摺るつもりは無かったため、それらの版木で十分だと思い選びました。
紙について、 かなり以前に購入したまま手元に残っていた和紙を使いました。定かではありませんが、恐らくパルプ入りの楮紙になります。 美しい作品を作る上で十分に応えてくれる紙だと思い、今回選びました。
絵具について、摺師間で浮世絵や新版画の復刻に一般的に使われるような化学合成絵具を使用しました。

彫りと摺りについて 
彫師・摺師の浮世絵的な技術や腕はあまり追求し過ぎないようにしました。特に以下に挙げるようなことになります。 
・欠けないように線を彫ること
・滑らかな線を彫ること
・見当がずれないように摺ること
・絵具の掠れがないように摺ること
・絵具の溜まりがないように摺ること
・余計な箇所に絵具汚れが着かないように摺ること

その理由は単純に、作品の味として、作品の表現上の理由です。ただその前提として、「そういった彫師的・摺師的な腕や技術はある程度の水準までしか作品の美しさとは関係がない」という考えが私にはあります。
どういうことかというと、(現在の浮世絵や新版画の復刻版ではなく)オリジナルの浮世絵や新版画に目を向けると、そういった技術的な条件を満たせていないにも関わらず、美しい作品が普通にあるということです。特に江戸時代の浮世絵では技術的に雑な箇所があるのは普通のことだと思います。それは江戸時代の浮世絵が薄利多売式に安値で手速く、また親方から弟子までが皆んなで作っていた事を思うと当然起こることだと思います。また彫師摺師の技術水準が明治時代以降に高度化した、つまり江戸時代当時としては普通乃至良好な出来のものでも、技術水準が上がった後世の職人から見ると粗が目立つということも起こり得ると思います。いわゆる初摺のような、江戸時代当時としては丁寧に作られているものであっても、よく見れば彫りや摺りに雑な箇所はあるものだと思います。
新版画の場合も、そういった技術的に雑に見える部分は普通にあると思います、最も新版画の場合は基本的に意図的な表現としてやってるのだと思いますが。
それで、そういった技術的な雑さは、作品の美しさとどこまで関係してるものなのでしょうか、、?
丁寧に作られた初摺と雑に作られた後摺では、前者の方が美しいと私は思います、しかしその初摺でもよく見れば雑な箇所はあるものであり、しかしだからといって、それによって作品としての美しさが損なわれているとは私には思われ難いです。 また復刻においてそういった技術的ミスが修整されたからといって、オリジナルより美しい作品になるのかというと、そうとも思われ難いです。
それで、彫りや摺りにおける技術の高度さは、ある程度までは作品の美しさと関係しているが、ある程度以上は関係ないもののように私には思われます。

今回は合計で26色摺りました。

制作を終えて
今回の制作は楽しいものでした。 ただ無心に版木を彫って摺れば、何か良い作品が出来上がって来る感じで、それは面白く心地良いものでした。 制作の初めの段階からそれなりの作品が出来そうな手応えを感じ、また同時に今後の作品のアイディアも色々とわいて来ました。 しかしこの企画を続けるかどうかは売れ行き次第です。

作品タイトル:Ueno Park, Tokyo, 7, 1938
作品サイズ:29×20.5 cm
今回の作品は23部限定になります。 なんでそんなに少ないの?と思う人もいるかもしれませんが、私の販売力からすると十分に多い数です、もし将来的に欲しい人がもっと現れれば、その時はそれに応じて、今後の作品の部数は増やすかもしれません。しかし実際のところ、もし世界中に2〜30人も私の作品を欲しい人がいるならば、私は本当にもうそれで十分です。


売れなければ、今後の制作はかつて一時やっていたように業者さん向けに浮世絵の復刻の仕事を頑張って行こうと思ってます。(それは彫師や摺師としての版元の仕事ではありません。私は数年前に摺師を辞めてますし、そもそも彫師でもないからです。)これはコストを抑えながら、安い値段で沢山作る仕事です。しかしクオリティーは市場における復刻版の平均水準には達すべきものです。 これはこれでやりがいのある仕事です。
(尚、前回の記事で、今後は現状再現としての復刻版を作って行くと言いましたが、販売面でのリスクから中止することにしました。)



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