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不気味な初音ミク——可不や小春六花にない可能性を探して

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はじめに

 3月9日、大学の研究室にHDDを返却してから、大学図書館で京都学派に関する新書を閲覧しようとしたら閉館日だった。私はそそくさと別の大学に足を向けるのだが、そちらも本日は閉館だった。居場所もなく京都市北部を彷徨いつつ、絶妙に遠い距離にある公共図書館に足を向けるのも面倒になった私はついに諦め、家に帰ってきたらもう19時だ。最近は外で活動することも多いだけでなく、花粉も酷いものだ。この時期になると、目を開けることもつらいものだ。そういうこともあってか、最近はSNSから若干デトックス気味であり、今日が3月9日で「ミクの日」であることも、ついさっき思い出したばかりだ。

 自分が初音ミクの魅力に始めて気づいたのは「Tell Your World」あたりだったことはどこかで書いた気がするが、初めて声を聴いたのはもう少し昔のことだった。今から13年ほど昔、中学生の校内放送で流れた「メルト」が、本当の意味での初遭遇だった記憶している。当時はまだ「ボカロ=オタクで陰キャ」というイメージゆえの忌避が色濃かった時代ではあったが、そもそも初音ミクが人ではないこそさえ知らなかった私はただ、「違和感がすごい」という純粋な理由であまり好きになれなかった。それが合成音声音楽ソフトであり、本質的には人間ではないものであることを知ったのは、それから数年後の話だった。

「不気味さ」の可能性

 初音ミクの声はたとえ「メルト」のように人間が歌えるようなメロディラインで構成されていようとも、その特徴的な声質によって、私たちに何かしらの違和感を提示してくる。この違和感はある意味で初音ミク、ひいてはボーカロイド音楽特有の個性でもあるだろう。だが、こうした個性は2010年代以降、より高度に深化を重ねる合成音声音楽の世界において徐々に変容しつつもあると考えている。

 筆者が以前に寄稿した『合成音声音楽の世界2021』では、VOCALOIDエンジンに限定されない数々のエンジンを採用したソフトウェアが台頭していることを踏まえ、従来の「ボーカロイド」ではない「合成音声音楽」の時代が到来していることを指摘した。2010年代に徐々に注目されたCeVIOやSynthesizer Vなどのエンジンは、従来のVOCALOIDエンジンの立場を揺るがすだけでなく、それが持っている特徴的な声質、そしてその声質が下支えとなって形成された文化圏全体を大きく揺るがしているだろう。まさに全体を駆動する心臓部分たるエンジンが挿げ替えられることは、VOCALOIDエンジンによって下支えされる「ボーカロイド」の世界そのものの大きく変えてゆく可能性を秘めていることは決して想像に難くない。従来の初音ミクが持っていたある意味での違和感、いわば「不完全さ」は、CeVIO AI「可不」の進化したインターフェイスと、Synthesizer V「小春六花」の人間そっくりな息遣いと声色によってもはや消失し、それによってボーカロイドはこれまでとは全く異なる世界へと変容していく可能性は少なくない。私たちは今、その過程の上にいるのではないだろうか。だとするとやはり、この時代の変化を前にして、私たちは「ボーカロイド」から「合成音声音楽」へと移行していくべきか否かを検討する必要があるのかもしれない。

 インターフェイスの進化やリアルな歌声は、合成音声音楽ソフトウェアの進化の象徴であると同時に、従来の枠組みでは想定されえなかった問題を提示している。それらはいくつもあるだろうが、なかでもリアルな声色を伴ったソフトウェアの登場による、従来は厳格に維持されてきた「表皮」と「内側」との境界線に関する問題は、今後さらに大きな問題ともなり得るものだと考えられる。すなわち、私たちは初音ミクと藤田咲との関係と同様に、小春六花と青山吉能との関係を見ることができるのか、という問題だ。

 初音ミクと藤田咲はいわば「表皮」と「中の人」であり、本質的には切っても切り離せない関係であることは自明のことだろう。しかしながら、ボーカロイドの文化圏に深く足を踏み入れた人であればあるほど、文化圏内における藤田咲という声優がいないことはにわかにも理解していただけることだと思う。なぜなら、初音ミクにおける藤田咲は「中の人」ではあるのだが、同時に初音ミクという表皮をめくった「中の人」は決して藤田咲に限定されないからだ。「表皮」と「中の人」は決して完全なイコールではなく、その理由にはやはり、初音ミクの歌声が人工的に作られたものであるが故の違和感——私が最初期に「メルト」を聞いたときに感じたような、人間の声ではない何かしらの異質な感覚——が関係している。ボカロPが「うちだけのミク」というキャッチフレーズとともに独自の調教で初音ミクを歌わせていく行為は、人工的な声の持つ不完全さを完全なものへと昇華させるための行為であるだろう。彼女のもつ不完全さを完全なものへと昇華させていく過程においてこそ、ボカロPたちの独自の創意工夫があり、そこに「うちだけのミク」概念が成立する。初音ミクの不完全な声色は不気味な印象をも植え付けるかもしれないが、だがそれによってこそ、「うちだけのミク」という概念を作り出すのだ。そうした個別具体的なボカロPたちの「うちだけ」が重なり合うことによって、初音ミクは複数体としての「中の人」となっている(以上の議論は上記noteも参照)。

 こうしてみると、その「表皮」の内面はもはや「藤田咲」だけではないことが分かるだろう。そこにあるのは個別具体な協調を受けつつもなお共通のフィールドで展開される、私たちという集合的存在でもあるのだ。哲学者の遠藤薫はこうした固定されない関係性を前に、複製技術の想像行為としての初音ミクを肯定的に捉えていた。

「表皮」と「中の人」の緊張性

 そうした初音ミクにおける「中の人」の複数性を前にしなければ、私たちは「可不」や「小春六花」を直視することはできないかもしれない。これらの新しい合成音声音楽ソフトウェアたちと歴史を重ねてきた初音ミクとを単純に比較することは決して良くはないが、後年に登場した技術をふんだんに使ったソフトウェアであるものたちが、インターフェイスにおいても声質においても以前のものより劣っているとは、よほど革新的な改革を行っていない限りは到底言えない。正当に進化を重ねてきた後年の合成音声音楽ソフトたちにはもはや従来のような調教の必要はいらず、簡単な操作によって人間そっくりな声を出すことができることは大きな魅力だ。しかしながら、「うちだけのミク」概念のような複雑性によって成立する宇宙のようなものは、そこには形成しえないのかもしれない点は注意を向けるべきだ。私がかつて中学生時代に感じた違和感のようなものは本物そっくりに作られた声色によってどんどん消去されているのかもしれないが、そこにあった違和感こそが「うちだけのミク」だとすれば、この変化をどう受け入れてよいのかは非常に複雑な問題となるだろう。「うちだけのミク」には初音ミクの違和感、不気味さが必要だ。

 息継ぎがない、違和感にまみれた不気味な初音ミクの声色にこそ、初音ミクの表皮に私たちという集合的存在を含ませることが可能であるならば、小春六花と青山吉能の場合はどうだろう。これから先の未来において合成音声が人間の声と完全に区別不可能な時代が到来した際、私たちはオリジナルの声と合成音声の声との間に生じる境界線を、果たして維持できるのだろうか。無論、小春六花というキャラクター性が青山吉能と小春六花との間に現時点では境界線を引いているが、よりリアルな声が作られてしまった未来において、小春六花という表皮が青山吉能という「中の人」を完全に覆いかぶせてしまう可能性は、決して無きにしも非ずだ。こ

 この点は、もはや理性的枠組みさえ撤去された果てでなされる、今日の情動的コミュニケーションが、その可能性を加速させていくのかもしれない。社会学者の伊藤守をはじめ、2010年代において誰しもが容易にコミュニケーションを交わすことが可能になった時代において、物事を自ら思考するのではなく直観的に判断することが非常に多くなっていることは多くの議論で指摘される。私たちがSNSで情報拡散するとき、その情報の内容が正しいか否かの判断を伴わない、或いはそもそも「読んでいない」情報を拡散することは多くの場面ですでに見られる行為だろう――無論、この文章だって最後まで読まれる可能性もないのだが。描かれたイラストが人間かAIかのどちらによるものかも徐々に判断できなくなりつつ「いいイラストだから」という理由だけで純粋に拡散し続けるこの時代において、果たして「声」の独自性はいつまで担保できるかは疑問だ。なぜなら、情動的コミュニケーションの時代において、私たちは常に「都合の良い情報」のみしか摂取しない――或いは「都合の良い情報」しか流れてこない環境に置かれてしまっている——からだ。このことは伊藤に限らず、フィルターバブルの問題として長年議論されてきた話題でもある。

おわりに

 哲学の思考問題に「テセウスの船」というものがある。修理によってもはや元の姿を完全に失った船を、果たして元の船と同じといえるか否かという、自己同一性に関する問題だ。青山吉能と比べてもはや遜色ない声色を小春六花が出せるようになったとき、それはもはや青山吉能でないだろうかという問題は、近い将来出るかもしれない。その問題を前にして、私たちは小春六花をどのように扱うべきだろうか。こうした問題は、あらゆるものが容易に合成音声音楽ソフトになる時代において、より現実化されてくる。こうした問題は初音ミクにおいてはなかったものではあるが、言い換えれば2010年代において合成音声音楽が飛躍的に進化していったことに対する、何より代えがたい証拠であるだろう。

 そもそも、こうした「表皮」の問題が浮上することそれ自体が、不気味さと複雑性によって構成された「ボーカロイド」文化とは異なる「合成音声音楽」の文化圏に私たちがいることを示している。先述のように、初音ミクの「中の人」はある意味で「私たち」だった。そうした状況は、分かりやすい操作とリアルな声色によって徐々に変容しつつある。この変化の過程において、私たちが今一度初音ミクの「違和感」と、それがもたらす「不気味さ」は、合成音声音楽の時代における進化と引き換えにして忘却されたものだ。だとすれば、「不気味さ」とは初音ミクという15年の年月を持つソフトウェアがもつ、大きな可能性だ。それは今一度、「合成音声音楽」の時代に対する「ボーカロイド」からの返答として、検討に値するものなのかもしれない。

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