『表現の不自由展』についての考察



1. 表現の自由と公共の福祉はトレードオフになることがある。裸という"表現"で公道を歩くことはできない。今回のあいちトリエンナーレにおける『表現の不自由展』は公道における「裸」に当たるだろうか。この「裸」かどうかを判断するのは多数決によって決められるべきものだろうか。

2. 1920年代から第二次世界大戦終戦までのドイツでは、今回の『表現の不自由展』における"展示物"であったり、その"展示物への批判"のようなものが政治利用された。当時のドイツにおけるユダヤ人への批判もまさしく、そういったプロパガンダの一部として政治利用されたのである。もちろん、ナチスそのものが民主主義的な選挙によって台頭し、民意(多数決)によって選ばれたことは確かである。すなわち、ユダヤ人への批判等の身近な話題における二項対立的言論を政治利用し、政治的権力を握った(*1)のである。このように、政治と表現は異なるように思えて、表裏一体である。ある表現が存在すると、その表現への"批判"もまた表現なのである。

3. 従来、ある表現の自由に対して、それらを公共に流布するべきかどうかを決定する役割はオールドマスメディアが有していた。少数の"確定的"なマスメディアであれば、情報を公共に流布しないことにより、"炎上"を回避することができたはずだ。しかしながらおそらく、ネットが発達した現代においては、全ての人間に「報道カメラ」が手渡されているといっても良いだろう。ある作品を問題とする人がネット上へ「報道」し、そのクラスタでその表現が増幅され、リツイートなどによって拡散される。この過程は"不確定的"である。報道のされ方そのものも、もはや一様分布的ではなく、正規分布的なものとして予測されなければならないのである。

4. 今回の『表現の不自由展』は、リアリズムとイデアリズムが最も悪いタイミングで衝突してしまったといえる。リアリズム側の人間だけで社会を動かすことはできない。同様に、イデアリズム側の人間だけでも社会を動かすことはできない。前者と後者それぞれの言動や行動が、お互いの理解の下で、倫理的土台(*2)の範疇に収まることを切に願う。


*1 今回の『表現の不自由展』におけるSNS上の一部の言論において、「公金が入っているから」という論理で表現を規制すべきとの主張が見受けられるが、おそらく公金等の政治的権力によって表現を規制する手法はまさにナチスが行なっていたものであろう。

*2 今回の『表現の不自由展』への批判の一部において脅迫があったとされる。これは犯罪であり、倫理的土台以前の問題である。また、開催者が「職員の生命や安全確保の対策を迅速に行えないこと」を理由として展示を中止することは致し方なく、倫理的土台を有した判断であると言えるだろう(このように炎上することを想定し、対策を事前に取っていなかったことは全くの疑問ではある)。開催者は、今回の件を教訓とし、今後こういった社会的にデリケートであると予想される表現を扱う際は、より厳重に守られるような対策を講ずることが必要不可欠であろう。また今後、「過去の脅迫事例」を理由に表現の自由を自粛することは断じてあってはならないだろう。

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