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VUCAの時代の人文学は、滅びゆく種族の唄なのか?

昨日は凄く久しぶりに母校を訪れました。おめあては、山上会館で開催されたTOKYO COLLEGEの哲学・歴史・文学・宗教の先生方による「”世界”とは何か?」というシンポジウム。

発見がいくつかありました。思ったことを記録します。

1.どの学問も「世界」=西洋中心主義であり、日本の先生たちとしてはそこに東洋の概念を持ち込みたいという野望(?)を持っているということ。

私が経験してきた米系外資系企業でも、例えばAppleなんかは偉い人が来日して全体会議で「We are working for an American company, so you should speak English」とのたまうような、グローバルカンパニーというよりアメリカンセントリックカンパニーというような社風でしたが(今は知らんけど当時は)、Googleはボーダーレスな個人のプレゼンスを認める社風でした。もちろん、どんなにユニークなアイディアもそれを言語化して伝えることができなければないも同じなので、英語は必須でしたが、フェアに多様性を認める風土がありました。(組織としてのキャッシュはほとんど本社に吸い上げられるんだけどね!)

アカデミアの世界では、理系は「数字と記号」で軽々と国境を越えているのに対して、「言語」を扱う文系はそれゆえの困難があるという話でした。人間の理解はその母国語の歴史的宗教的なスキーム、フレームワークにしたがうので、言語的に翻訳をしても正確には伝わらないという「翻訳」の難しさが強調されていました。

その点に関してわたしが思ったのは、そもそも、同じ国の同じ言語をしゃべる人同士でも、一つの事実に対するものの見方にはおおよそ幅があり、個人はその人だけの文脈・物語を生きるということです。言語が違えばその幅は大きくなって当然、伝えたい気持ちや努力は放棄してはいけないけれど、相手に自分と同じ見方なんて期待しなくていいんじゃないかと。

そして、わたしたちは既に、膨大な現実を隔てる言語の境界を、ある程度、技術によって克服しつつある世界に生きているではないかと思います。

人と人がそうであるのと同様、文化と文化もそれぞれの立ち位置があり、違う見方があり、だからこそ相互に対話して刺激を受けあうことが人類の新たな地平を拓く。

日本のような辺境国家としては、そこでどうせ相手はわかってくれないと言って鎖国をしたら試合終了。西洋中心主義的世界観で物事を語る相手の中にも、知的なエネルギーがあることを信じ、希望と意思を持って対話に参加し続ける意思が大事ってことだよね、と感じました。

2.人文学が国家に予算を削られすみに追いやられているのは日本だけの傾向かと思っていたが、米国でも同じ潮流らしいということ。

つまりこれも、グローバリズムとテクノロジーの進化のあおりなんですね。

文学と哲学の先生の間で「どっちが最も役に立たないか」競争になってたのがコントみたいだったけれど。

けれど、わたしがこれまでの仕事人生のなかで、不確実で曖昧な状況下で何か意思決定をしなければならない折々に、何に助けられてきたかって、流行りのビジネス書ではなくて、むしろ、幼少時から触れてきた文学や哲学者の言葉であったりしました。

辿ってみたら「私のこの行動指針の原点って、子供の時に読んだ絵本じゃん!」ということもいくつかあって、それは実際にロシアやヨーロッパのお話しだったりするのですが、日本のか他国のものかなんて区別して考えることなく、その世界観と美しい絵に魅了され、自分のものにしていました。

文学の先生が冒頭で引用された、ゲーテの「詩は人類の共有財産である」というのは真実だと思いました。アカデミアの在り方も問い直される時代なのでしょうが、楽観的に捉えるなら、今こそ、ゲーテの言う「世界文学」の時代の到来に備えるべき時がきているのではないかと思います。すべての個が人類の叡智に与し得る、素晴らしい道です。

ただし、ここで拗ねて閉ざしてしまえば、そのまま忘れ去られてしまう。日本の人文学は、特にそういう瀬戸際にある。そういう危機感があっての、このシンポジウムなんだなって理解しました。

先生たち、頑張って~!

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