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お地蔵さまの目線

ほぼ毎日通る道筋に、大きなイチョウの木があって、その下にお地蔵様が鎮座している。

あーちゃんのデイケアがその先にあるので、このところ毎日のようにそこの前を往復しているのだが、

雪の積もった朝、お財布をおとした。

乳児だっこで、大荷物で、モコモコ着ぶくれして、コケないように歩くことに気をとられていて、落としたことにちっとも気がつかなかった。

でも、自宅に戻って一息ついていたら、知らない番号から携帯に電話がかかってきて、その方がお財布を拾ってくれたのだと知った。近くにいると答えると、寒い中なのに、その場で待っていてくださって、謝礼も受け取られなかった。

現金はそんなに入ってなかったけどカードとか免許証とか一杯入っていたので、良い方に拾われたことに感謝して、あわせてお地蔵さまにも幸運を感謝した。

わたしはお地蔵さまの前を通るとき、なんとなくちっちゃく頭を下げて心のなかで「いつもありがとうございます」と言うのだが、翌朝はちゃんと手を合わせてお賽銭を差し上げて、お財布が良い人に拾われてすぐに戻ってきたことにお礼をいった。

そこで、あらためてお地蔵さま、道祖神への、わたしのいつもの「ありがとう」てなんだったのだろうと考えたのだけど、

意識しないまでもふわっと思ってたのは「ヨーヨーとあーちゃんを、みんなを見守っていただいて」ありがとうございます。なのだった。

でもこの「見守る」って、無力なようでとても有難いものだなと思う。

都会暮らしの中では、みんな他者のことを気にとめない。

歩いているときは、道行く他人は自分の通路の邪魔くらいな感じだし、電車に乗ってても自分の半径50cmどころか、小さなスマホの画面にアテンションを傾け、向かいに立つ人がお年寄りだろうと妊婦だろうと幼児をだっこしていようと、気がつかないもんが勝ちみたいに自分の世界に閉じ籠る。

弱者を見守る優しい視線というのは、まことに得難く有難い。子供を持つようになってその事に気がついた。

逆にいうと、お地蔵さまとか、交差点で交通安全のはたをもって小学生を導くシニアボランティアとか、優しい視線にも気がつくようになった。

自分もまたスマホ依存の東京人にちがいはないが、社会の中で困っている他者、分かりやすい弱者でなくても、大事なものを落として焦ってる人とか、迷っている人とか、泣きたい人とかがいたら、まずは気がつくことのできる、お地蔵さまの視線を持つ人になりたいものだなあと。思った。

同じ次元に生きて動く分、力の範囲で手をさしのべることもできるのだから。

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