友人と仕事をする怖さ

友人として仲が良いことと、機能的であることは、同じではない。

仲良くいられるのは、何らかの時間を共有する時に、楽しみが発生していることだけれど、もし何かしらの機能性が求められる他の活動にスライドした時にも、同じムードが維持出来るかは、冷静に考えないとダメなんだろう。

逆も然り。

機能的であることと、仲が良いことは、同じではない。

この両者を取り違えないこと。片方が満たされたからといって、もう片方も満たせると思うのは考えが甘そうだ。

多分は、最上段の価値観でどこを握るかが大事で、そこが互いにズレてないことだったり、もしもズレてる場合には、無理に組まないことが大事なんじゃないか。というのがほぼ論の全てだが、その両者を満たすアプローチはないのか考えてみる。そんなお話。

***

俺たちの目標は勝つことじゃなくて、十年後もこのメンバーで集まることや

大学のサークルでサッカーをしていた時のこと。一回生、二回生と年次を経るごとに、少しづつ変わってきたであろうことがあった。それはメンバー間の熱量に差が出てきたこと。

おそらくその理由は単純で、興味関心が広がるにつれて、一つに多くの時間を割けなくなったとか、例えばそんなことだったのだろう。

練習によく参加するメンバーがいる一方、試合にだけ来る奴もいる。ただしサッカーの実力だけを言えば、練習の参加具合とは必ずしも関係がなかった。

当時のキャプテンは頭を悩ませていた。練習に来ないメンバーは、練習にはもうそう来そうにないが、彼らの力も活かさないと試合には勝ちづらい。とは言え、練習に来てるメンバーを差し置いて来てないヤツを重用するのも、何かが違う気がする。そんなジレンマ抱えつつ、僕たちは勝ったり負けたりした。

このメンバー間のコミットメントの差が、チームとして向上してゆくに必要な「連続性」を保てなかった一因だったのは、言わずもがなだったが、それと同時に、あくまで部活動ではなくサークルだから、各自にそんなコミットメントを求めきれないこともまた、言わずもがなだった。

勝ちたいが、勝てない。多分、もう勝てるチームにも、なれない。キャプテンが選んだのは、上記のセリフだった。俺たちのチームの目的は、勝つことではない。仲良くすることである、と。

これを聞いて僕は正直言ってがっかりした。僕はうまくなりたい、勝ちたい側の人間であって、スポーツは勝ちを目指さないとダメなんじゃないかと無自覚に信じていたからである。

ただそれと同時に、その判断自体を立派だなと思った。サークルという前提に立ち返り、そこで出会えたメンバーとの縁的なものを優先し、全体の方向性をチューニングしようとしたこと自体は、一つの真っ当な判断だろうと感じたからである。

かくして十年後は訪れた。君と夏の終り将来の夢。

卒業10年のフットサル&飲み会イベントとして、充分な時間的余裕を持たせたタイミングから企画して、ほどよく近づいた頃合いに、キャプテンは参加可否の決をとった。

結果はこうだった。当時から、サークルに熱心であった人は来ようとして、そうでなかった人には、他に優先すべき都合があった。

企画は流れた。

気を遣うことで生産性を下げる必要はないから、率直に思っていることを言って欲しい

友人と今、一緒に仕事をしている。

僕自身が受託した仕事の一部をお願いしているのだけれど、その内容の確認をしている時のことだった。

「正直やったことないし、一般的な基準もわからんから、作業スピード的にどんなもん?」

僕は濁した。相手にとっては初めてのタイプの仕事であったこと。そもそもジャンル的な慣れの問題のこと。また人にはそれぞれに得意不得意があること等、諸々の言い分を自ら並べて、だから「全然問題ない」と伝えた。

それに対する応答が上記の通りだった。

自分に気を遣うことで、真の目的を見失うな。

人の機嫌を取ろうとするな。やるべきことをせよ。心配するな、信じろ。とでも言われるようで、ハッとした。

友人として仲が良いことと、機能的であることは、同じではない。

僕は日和っていたのだ。友人関係を何らかのリスクに晒すことを恐れていた。しかし、それはある意味で見くびった態度でもあった。

その友人関係に信頼があるなら、忌憚のない意見をぶつけた上で、その結果を結果として(人格や関係性と切り離して)理解することも出来うるし、そもそも、今の関係性に一定の強度があるとすれば、それはそれまでの何かしらの経験において、同じ目的を共有し、お互いに熱量とコミットメントを持てたからでなかったか。

***

一つの目的に(それは楽しくお喋りをするでも良い)機能的であることが、互いの信頼に繋がると思う。それが、他の目的にも機能的であることを意味しないのは先に言った通りだが、それを試してみる上で、築かれたベースの信頼がリスクに晒されると感じる必要はなくて、実験的に「他でもイケるか」試してみる。ダメなら止めて、無理はしない。

そんな考え方が、今はいいのかなと思っている。

他方で、何かしらの目的において機能が弱い関係は、ゆるい繋がりと呼ぶべきもので、それはそれでとても貴重だと思う。不幸なのは、ゆるい繋がりに強い信頼関係を期待することなのだろう。

なんちゅう真面目な回や。

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。