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Garbage in, Garbage out.

ゴミを入れたら、ゴミが出てくる

これは前職で何かしらの分析(たとえば売上予測など)をする時に、聞いたセリフである。

直訳すれば、上記の通り「ゴミを入れたら、ゴミが出てくる」なのだけど、その分析手法やツールがいかに正しくても、ちゃんとしたインプットを入れないと、ちゃんとしたアウトプットは得られませんよ、的なことである。

これを自らにも適用してみる。

自分を売上予測ツールとなぞらえるのはいかがなものか、と思わないでもないが、普段のインプットがアウトプットに影響を与えるのなら、そこに気を払うべきなのは同じことだろう。

では、”ちゃんとした”インプットとは何だろうか。

問いしか勝たん

インプットできるものはほぼ無限にあり、他方、時間は有限である。人生をかけたとて毛ほども知り得ない中で、何かをアウトプットして生きてゆく。となれば、インプットもよきものを選びたい。

多分僕がしょっちゅう間違え続けているのは、「方法」を真面目にインプットするのにかまけて、「問い」に向き合ってないことである。「方法」とは「問い」との組み合わせでこそ価値を発揮するのだから、「方法」だけ学んでも片手落ちというもの。

(参考)遅延評価型学習などと「必要になってから必要な箇所だけを学ぶ」のが、最も効率のよい学習方法だとかも聞いたことがある。

つまり「インプット」する前に、まず「問い」が肝心になる。何に対して答えを出したいのかが明確でこそ、何を情報として知ると良さそうかが決まるという話でした。当たり前のようでいて、よく間違えます。

問いしか勝たん、と覚えたい。

インプットの精度

インプットの良し悪しを決めるものが、もう一つある。それは問いに対して有効かどうかの精度、言い換えれば「主観的な」感覚ではなかろうか。

これが売上予測ツールとは異なるところで、共有に値する分析とは、まず「客観的に正当と言える」アウトプットを志向するため、「客観的に正しい」インプットが求められる。ここでは、客観は主観に先立つ。インプットの精度とは客観性である。事実として正しいことが大事である。

他方、自分のアウトプットはと考えると、そこでは「心に響くインプット」を受けてこそ初めて、そのエネルギーが内側に籠もり、頭に鳴って、表現の花であるアウトプットに繋がるとするなれば、最初に心が響かないことには、何のアウトプットもありゃせんでという話になる。

客観的な評価に耐えるかどうかの前に、自分がどう感じるかが問題になる。主観が客観に先立つ。インプットの精度とは主観である。感情が動いていることが大事である。

まとめれば、意味のある「問い」を持ち、その「問い」に対し「心が動く」インプットをうまいこと選んで重ねること。それが続くうちに、ようやっと雨が溜まり、バケツから溢れるように、自分なりのコダワリと矜持の持てるアウトプットも溢れてくると考える。

全く関係ないが、例えば「曖昧さ」は僕の心には響くけど、「切れ味」こそが響く人もあるだろうし、何が響くかはその人次第で、その差が味わいなのだろう。

だから「方法」のことばかりではなく、どんな「問い」を考えるべきかを、そしてそんな「問い」を育んだり、答えたりするためのインプットをこそ、大切に選んで経験していく必要があるよね、というのが前回のエントリの「失敗する自由」にも書きそびれてしまってたところであった。

筆足らず、舌足らず、飽き足らず。旅烏。

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ところで最近、奥飛騨に帰ってきた。そこで感じた「問い」を考えてみる。

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山は何故神々しいのか?

奥飛騨に来ると、山が異常に綺麗に感じる。そこには何かしらの神的なものがあるようだ。他方、海はというと、海好きには怒られるかもしれないが、神々しい感じはあまりしない。(※注 海中はちょっとする)

散歩しながら、この差は何から来るのかしらと考えたところ、山には圧倒的な時間をかけて育まれた造形美と、生々しいライブ感があるのではないかと思い至った。

山は木の集合である。木の団体芸である。それぞれの木には蓄積された時間があり、遠目に見るとブロッコリーのような隆起のひとつひとつに、数多の生命の蓄積がある。それが群れをなし、大きなまとまりでもって全体を為して山になる。

山脈は山の集合である。山の団体芸である。それぞれの山には蓄積された時間があり、以下同文。

再度、一本の木に戻れば、そこでは木の種類も、樹齢も、枝や根の展開も、葉の色合いも、全てが異なっている。そんな一本一本が隣の木々と同時代に居合わせて、生きるか死ぬかの中で共生する生々しさ。それがもう何十年、何百年も続き、バランスして存在するところに圧巻のムードを感じる。

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山とはそんな風に、一本一本の木で構成された全体で持ってひとつであり、どこかで切り分けられるものでもない。木が多く鬱蒼としたところも、薄くハゲたところもまた山の表情である。こうなるとどこまでが山で、どこからが山でないのか、正確には数えられない。さすれば、大陸すべてがひとつの山だとも言えるのかもしれない。

いや、そんなことはないか。

最後に客観性が出てまいりました。

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。