【グロ】ザ・たっちのアジの開きと人格の在処【いのかも】

※書いている本人がグロ耐性が低いためグロいことはないと思うが、一応グロ注意



地球儀は、どこで切って開いても世界地図になる。(図法は無視)
切り取り方が大抵決まっているのは、陸を縦(横)断してしまったり、今更変えてもパッと見づらくなる、というような都合によるのではないか。

①おおよそ球体として存在している地球を切り分けているのは人間の便宜である、
②のでどっから切ったとて情報量に差はない
と言っていいだろう。

同様に、出来上がりの綺麗ささえ無視してしまえば、アジはどこからでも開けるのではないか。(包丁さばきは無視)
実際に、魚の開きには「背開き」と「腹開き」の二種類の正しいやり方があるらしい。

アジの開きについても、
①全体として存在しているアジを(目やヒレについての言い方で「左右」に)開いているのは人間の便宜である、
②のでどう開いたとて情報量に差はない
と言えるのではないか。

具体的には、例えば、左右ではなく背側と腹側(上下)に開いたとしても、アジ自体が持つ情報量が変化する訳ではない。ただ人間がアジを開きにくく、食べにくくなるだけなはず、と思いたい。
開かれた半身がそれぞれ均等な情報を持たなくなることに違和感を覚えるのは、適当に言えば、左右対称のイデアを持つ人間のエゴだろう。

そしてザ・たっちのアジの開き。
周知の通り、たくやとかずやの二人が一旦腹を合わせて向かい合い、「アジの開き」と言いながらパカっと観音開きするという芸(わざ)である。余談だが、私は幽体離脱よりもアジの開き派だ。
たくやとかずやが(少なくとも表面上は)酷似しているために、(一般的には左右が均等に開かれる)アジの開きを模せるのである。
適当な主張を続けるのであれば、左右対称を志向する人間のエゴを上手く利用したものと言える。

ここで私は、このザ・たっちの「アジの開き」にも同様のことが言えるのではないか、と思ったのだ。
同様のことというのは、
①全体として存在しているアジを(目やヒレについての言い方で「左右」に)開いているのは人間の便宜である、
②のでどう開いたとて情報量に差はない
についてである。

幸運にも、ザ・たっちの二人は一卵性双生児だという。つまりDNA、生物として持てる情報が同じなのである。
ということは、向かい合ってひと塊の「アジ」となった状態のザ・たっちは、どこから開いたとしても「たくや」と「かずや」に分かれうるのだ。
その上、魚のアジの開きとは違い、元は二つの存在であった「ザ・たっちのアジ」を開くため、開いた後の「半身」はそれぞれ均等な情報を持つことが常に(どこから開いたとしても)担保されている。
人間のエゴにどこまでも優しいのが、ザ・たっちの「アジの開き」なのではないか。

例えば、二人をどちらかの背骨の位置から開こうとした場合、「元・たくやの右半身と元・かずやの左半身」と「元・たくやの左半身と元・かずやの右半身」がそれぞれ「新・たくや」と「新・かずや」として世界に顕現することになる(どっちがどっちかは分からないが)。
繰り返すが、ザ・たっちの二人は一卵性双生児であるため、360度どこから開いても(同じような操作を水平方向のどこからしても)、それぞれの持つ情報は等しくなる。

先程の例えの中でアジを上下に開いたからには、ここで「ザ・たっちのアジ」を垂直方向に開いた場合に言及せずにはいられないだろう。以下暴論。
ザ・たっちの二人が一度「アジ」になったからには、この「アジ」を上下に開いたとしても情報量に差はないことは確かである。上の半身(二人分の上半身)も「2分の1ザ・たっち」であるし、下の半身(二人分の下半身)も「2分の1ザ・たっち」だ。
しかし、この「アジの開き」が芸(わざ)である以上、求められているのは二つの半身ではなく、瓜二つのたくやとかずやである。つまり、どちらかが「たくや」どちらかが「かずや」でなくてはならない。
そうでないと、人間(観客)は違和感を覚え、咄嗟に笑えないだろう。それでは芸(わざ)として生まれ落ちたその本質を失ってしまう。
前述の通り、「アジの開き」は、人間の行為の結果であるアジの開きを上手く利用した、人間のエゴを突くような芸(わざ)なのである。この人間の作為の入れ子構造により、「ザ・たっちのアジの開き」は垂直方向に開くことを想定しない、と言える。

念入りに前置きをした上で、本題に入りたい。
水平方向に360度どこから開いたとしても、「新・たくや」と「新・かずや」がとれる「アジの開き」。
ここで、各「半身」が「新・たくや」か「新・かずや」かを決めるのは一体何なのだろうか。
上で例に出した「右半分かずや左半分たくや」はどちらで、二人はどう自認するのだろうか。
この「ザ・たっちのアジの開き実験」により、かずや(たくや)だった「半身」がたくや(かずや)へと変わる境界を探ることで、人格や自認といったものの在処をより詳細に突き止めることが出来るのではないか。

もしかしたらもう解明出来ているのかもしれないが(軽くインターネットで調べたところ、性自認については推定されているようだった)、それであれば私がもっと早くこの実験を思いついていれば…と思う次第である。
ザ・たっちもアジの開きも、知ったのはもう10年以上前のことだ。口惜しくて仕方がない。
しかし、私がザ・たっちのアジの開きについて考えていた間の悦びは確かなものである。全てのピースがはまった瞬間の快感は忘れられない。

ザ・たっちの『アジの開き』は伝統芸能となり、あるいは科学発展への大いなる寄与によって、紫綬褒章を受賞することを願ってこの文章を締めたい。

今年度は、「アジの開き」を目にする機会が前年度よりも増えますように。