ラーメン

馬と鹿 ~ジーコが指示したただひとつのこと~(エッセイ)

2007年秋、居酒屋で飲み終わり友人とふたり、近くの中華料理店に入った。テーブルに向き合って座り、ラーメンと餃子を注文した。
餃子が二人前運ばれてくる。
友人が醤油差しの隣に置いてある「す」と書かれた透明の卓上びん容器を取る。黒いふたを指で押さえながら、そっぽを向きあう差し口の一方から餃子用の小皿にお酢をドボドボ注いだ。並々注ぐと、友人はそれを渡してくれた。
私は苦笑した。
「バカみたいにお酢入れるね?」
「そう? お酢好きだから。まだ足りないくらい」
友人は不敵な笑みを浮かべながらそう言うと、今度は小皿にちょびっと醤油を足した。

友人は山形出身で茨城在住。われわれは馬が合った。
彼はサッカーJ1鹿島アントラーズが好きで茨城にやってきた。私は長年の競馬好き。
だからわれわれの飲み会は「馬鹿野郎会」と名付けていた。
彼がめがねを人差し指で押し込んだ。
「サッカー日本代表監督だったジーコは選手の自主性を重んじていたのは有名だよね。個より組織を重んじた前監督のトルシエとは真逆で」
「うん、知ってる」
「ところで、そんなジーコが唯一選手に指示していたことがあるんだけど、何だか知ってる? ピッチ上のプレーじゃないよ」
「なんだろう」
「ジーコは選手に毎夕食ごとモズク酢を食べるよう義務付けたんだ。帯同シェフにも必ず出すよう指示してね」
「へー。ブラジル人なのに、なんでモズク酢?」
「モズク酢はその日の壊れた人間の細胞を再生させる一番の食べ物だということを、ジーコは日本に来て学んだんだ」
「へー。選手のプレーでも意識でもなく、モズク酢!」
お酢のびん容器が輝いて見えた。

私は思い出した。高校時代に野球部のピッチャーだった同級生と、下校時、パーコー麺を食べたことを。
彼はお酢の容器のふたをパカッと開け、パーコー麺に全部ぶち込んだ。差し口からお酢を注がない人を初めて見た。
店員がこちらを見ていないか冷や冷やしながら小声で訊いた。
「一本入れたのか? おまえ、そんなバカみたいにお酢かけてどうすんの?」
「どうすんのって、うまいよ。練習後は疲れが取れるんだよ」
笑いながら答える彼をこの世の物とは思えなくなった。私は注文したパーコー麺を食べることさえ忘れていた。

お酢を眺めていると、ラーメンがやってきた。期待通り、山形の友人がラーメンにもお酢を注いだ。私も同じくらいドバドバと入れた。
箸で麺を口に運ぶと、鼻にツンとくる。口に入れたらちょっとむせた。
友人が笑っている。
馬鹿だったのはどうやら私のほうだったようだ。


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