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サンタは誰なのか

※これはfreee19卒Advent Calendarの最終日となる25日の記事です。
みなさん1日遅れてしまいましたが、メリークリスマス。様々考えたのですが今回は自分の思想的な部分を文章で表現しながら、エッセイっぽく自分のことを綴れたらな、と思います。


5月、私は髪を切った。肩まであった髪をショートに。咄嗟に「あ、失ったな」と思った。髪の毛を?もちろんそうだ。そしてそれは”女の子としての私”を脱ぎ捨てたような気持ちにさせた。

私はこのとき初めて気づいたことがあった。それは意外と自分は様々な記号を身に着けて生きてきたということだ。その中でも存在が大きかったのは、意外にも「女の子」という記号だった。

これを読んだ友人は意外に思うかもしれない。むしろ私はそういった枠組みとは別の場所で生きている(生きていたい)と思っていたから。でも、いざ女性を象徴する記号が取り払われると、女性としてのアイデンティティは一体何が残るのかと途方もなくなってしまっている自分を自覚したのだ。

この時期実は、就活真っ只中だった。

「あなたの強みを教えてください」
「10年後はどう生きていたいですか?」
「何を成し遂げましたか?」

非常にオーソドックスな質問だが、こういった質問たちが私は非常に苦手だった。いくらでも準備できるし自分を取り繕えるものだったからだ。
前提として就活は力の非対称性がある中で、こうしたいわば「どれだけ一次的な内部情報を知って自分を合わせて行けるかよーいどん!」の勝負に全力投球できるほど私は器用ではなかった。
だからこそ選考も希望するところは思うように進まず、いまいちな結果が続いていた。どうしても就活にハマりきれていない自分に苛立ち、焦る日々。元からそれほどに蓄えのなかった自信は日に日にすり減っていくのを感じた。

そうした就活の中の一つに、ご存知”黒髪ひとつ結びリクルートスーツ”という慣習があり、これも「私達は郷に従うことができますよ」という一種の記号であった。それ自体になにか強く反発していたわけではなかったが、「こうしなければいけない」が多すぎることに疲れてしまった私は、履歴書に貼ってしまっている長い髪の証明写真とのギャップを全く気にせずに憧れていたショートに仕様変更した。

このあと冒頭の感情の吐露に繋がっていくのだが、その一方で開放的な気分にも包まれていた。それは、目に見えて生きやすくなったと感じたことが理由のひとつだった。

これをお世話になったインターン先の社長がすごくわかりやすい言葉で表現してくれているので紹介したいと思う。

「まゆゆ(社内でそう呼ばれていた)は見た目から受ける期待値は清楚な可愛い系女子大生なのに実際の機能性が意思の強いズバズバ本質つく系だからその不一致がいびつだったんだよ」

これを聞いたときは思わず閉口してしまったが、これは言い得て妙で、実際に就職活動も面接を受ける際の面接官との会話のズレが少なくなったり、声をかけてくる男性のタイプが大幅に変わったり(笑)などした。
これは見た目が変わったからという話ではなく、そのときに脱した「女の子としてこうあるべき」「就活はこうするべき」「人生の枠組みはこうでなくては」という記号をすべて脇に置き、一旦ゼロから自己を見つめ直して再出発したからなのだけれど、身にまとっていた記号に気づかせてくれたという点で、仕様変更は非常に有意義だったと感じた。

このとき既に8月も終わりを迎える時期で、それこそ「あるべき就活終了時期」をとうに超えていた。そうした最中に出会ったのが他でもないfreeeだったのだ。不思議なことにfreeeの面接では志望動機は愚か強み弱みなどの質問がなく、とにかく私という人間を知ろうとする質問ばかりで、ただ聞かれたことにきちんと答えればよかったので一番話しやすく、また学びも多かったことが印象に残っている。(逆にいうと事前準備などの取り繕いは全く通じない面接手法でもあるが。)

最終的に内定をいただき、freeeで働くことに決めたのは、もちろん会社が描く未来を自分も一緒に描きたいだとか、事業全体を強くしていけるマーケターになりたい、仲間や組織の文化が合うだとか言えばキリがないのだが、一番の理由は一般的な記号を持たない手ぶらの私自身に「一緒に働こう」と言ってくれたことだった。今でも採用を担当していただいた上赤さんには、言い表せないくらいの感謝をしている。

生きていると、誰かのアタリマエやジョウシキ、カンシュウといった記号にいつの間にがんじがらめにされて息もできないほど苦しくなってしまうときがある。そうしていると最終的に、求めていなかった”誰か”が完成してしまう。
記号は身につけさせられるものではなく、自分で形作り、思い描く自分や自分の未来を構成する一部として選びとっていくべきものだと、私は断髪以降強く思うようになった。
だから私は思う。サンタはいない。サンタになる人がいるだけなのだ。