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原発事故避難者が安定した住まいを取り戻すために。問題を終わらせず、声を上げ続けて

震災の日。「避難」の始まり

松本徳子さんは出身の福島県で、ごく普通の家庭に育ったという。
祖母が親戚が闘病する姿を間近にしていた影響もあり、医療関係に興味を持ったことから看護の専門学校に進学。看護師として地元の病院に勤め始めた。
やがて結婚され、お子さんが産まれたこともあり、地元の百貨店に転職。その後もずっと福島県内で生活を築いていらっしゃった。

そうして2011年3月11日を、松本さんは福島市内の百貨店での勤務中に迎える。

「ちょうどその時、交代で入ったお昼の休憩時間でした。ゆっくりお茶を呑んでいたのですが、この世のものとは思えない揺れが始まり、電気も消えて。
休憩場所が7階だったのですぐに動けず、4階の売り場に戻れた時にはすでに他のスタッフがお客様の誘導して避難したあとのようでした。その状況を確認してから私も外に出ました。
店長からいったん外で待機を命じられていたのですが、雪もちらついてきて、貴重品やコートなどを取りに建物の中へ戻ってから、解散という形になりました。
とはいえ、そこから郡山市の自宅へ帰ることも困難でした。駅には入れないし、バスも電車もそもそも動いていません。
だからちょうど近くの学校の体育館が避難所になっていたので、そこへ避難して一夜を過ごしました。

次の日、なんとかタクシーを捉まえることができて郡山市の自宅へ帰ることができました。水などのライフラインは止まっていることは聞いていたので、まだオープンしていた近くのお店で水や食料を買って帰りました。
結局、電気は止まっておらず、テレビをつけたら福島原発一号機の爆発事故の模様が放送されていて、そこからだんだん慌ただしくなってきました。
ただ、この時点ではまだ避難は考えておらず、灯油やガソリンの確保など直近の生活再建にバタバタしていました。

子どもだけでも避難させたいと思い始めたのは、14日になっての3号機爆発を見てからです。その月末に県外へ出るバスが走るという情報を得て、とにかくいったん子どもを県外に暮らす親族のもとへ避難させたんです。
この時は余震が続く中、学校が再開に合わせて翌月には一度自宅へ戻しました」

しかし、5月頃から福島の感じが変わったのだという。『子どもたちが鼻血を出している』という情報が流れ、また避難指示の出ていない同じ地区の子どもたちが20人ほど避難していることを知った。

「そこで自分で調べてみると、避難指示は出ていないけれどやはり周辺の放射能が高い。そのうち自分の子ども鼻血を出し『これはもうダメだ』と。すぐにまた親族を頼って子どもだけを避難させ、自分も一刻も早く避難する算段を調べ始めたんです。
そこで罹災証明書を持っていれば神奈川県内で民間借り上げ住宅が無償提供されるということを知り、同県内の系列支店へ配置転換に応じてくれた職場の理解も後押しする形で、年内にアパートを確保し、避難することが出来たんです」

松本徳子さん

こうして松本さんの「避難生活」が始まった。
このような形で避難指定区外からの「自主避難」という形で住み慣れた地域から避難された方は、当時約12,000世帯にのぼっているという。
そして2019年現在。松本さんも含めて、さまざまな事情で戻れない方が多数取り残されている。

未だ還れない人に寄りそうために

「避難の協同センター」は2016年、福島第一原発事故により避難を余儀なくされた方に向けて、生活や住宅についての相談および支援をおこなうために設立された団体だ。

松本さんは団体で代表世話人を勤め、現在、居住困難や困窮状態におかれている避難者へのソーシャルワークや国・県との交渉の場に立つなどしている。
しかし、そういった市民活動などにはまったく縁がなかったのだという松本さん。

「震災直後にいろいろな裁判が起こされたのですが、郡山市の子ども達14人が原告として立ち上げた『集団疎開裁判』に(お子さんが)原告として参加しませんか?、と誘われたのが現在の活動に連なる一番のきっかけだったと思います。そこから他の裁判の原告となって、行政との交渉や散らばっている避難者との集会に参加するなど勉強を続けて、今に至ります」

そう語る松本さん自身、避難先での生活は決して楽なものではなかったという。

「慣れない土地での生活でしたから、仕事は継続できたもののかなり不安でしたね。いくら住宅が無償提供になるとはいえ、一年ごとの更新で先が見えずらいことも厳しかったです」

避難先の住宅は災害救助法によって公的に用意されたものの、民間の借り上げであり、また当時2015年には借り上げそのものが打ち切りになるという情報もあった。
松本さんたちは他の支援者と一緒に福島県に対し、借り上げ住宅の延長を求めて交渉をおこなった。その成果もあり、一年ごとの延長を勝ち取っていったものの、2015年の春に、2017年3月末で延長が打ち切られることが閣議で決まってしまう。

住宅の無償供与が打ち切られた区域外避難者は約12,000世帯にのぼる。県の調査によれば、民間借り上げ住宅の打ち切り後の行き先については、約8割が福島県外で住み続けることを選択した。
しかし現状。2019年3月には国家公務員住宅に住む区域外避難者約130世帯は、契約期限切れを根拠に退去を迫られ、合わせて一定収入以下で民間住宅への避難を続ける世帯に対して支給されていた家賃補助も終了されるという状況だ。

遡って2016年。松本さんは同じく避難者からの相談対応をしていた瀬戸大作さん(「避難の協同センター」設立者のひとりであり、現事務局長)と知り合う。
さまざまな生活困窮者支援団体に関わっていた瀬戸さんは、避難者から「今日、明日食べるものがない」などの窮状を訴える相談を受けていた。

瀬戸大作さん

「2016年5月頃、2017年3月いっぱいで自主避難者に対するみなし仮説住宅の提供が打ち切られることが避難者に通知されたんです。そして5月には、自主避難者に対して『あなたの家は3月いっぱいでなくなるから』と個別訪問や集団説明会がおこなわれました。
その中で、母子避難された後離婚され、生活が苦しいお母さんのもとに福島県と東京都の担当者や社会福祉士ら4名がやってきて、4対1で『家を出てってくれ』と詰めるという問題がおこったんです。
この出来事の2週間後、私のもとに『今中央線のホームにいる。死にたい』と電話が来て、緊急保護しました。この時に『この避難者問題というのは大変なことだ』と考え、これは早急に動かなくてはならないと思ったんです」
(瀬戸さん)

「避難の協同センター」は発足間もなく、住宅支援を継続させるため、政府や東京都と幾度も交渉を続けた。2016年夏には、東京都が都営住宅の優先枠を用意すると約束。ただ、これには細かい要件が課され、なるべく多くの避難者が利用出来るよう松本さん達は折衝に当たった。

避難の協同センターのみなさま(写真提供:避難の協同センター)

そもそも、避難者への住宅支援の根拠となっている災害救助法が、今回のような広域避難を対象としていないものであると同センターは指摘する。
全都道府県に避難者が散らばっているにも関わらず、住宅支援を「継続するか」「止めるか」については被災県が決定するという枠組みは変更されなかった。
今回の場合も、そもそも避難者の実態をある程度把握している避難先の自治体が住宅提供と打ち切りに伴う「追い出し」をおこなう主体であるにも関わらず、意思決定は依然福島県が担っていることが、問題をこじれたものにしている。

問題への無理解を乗り越えるために

「避難の協同センター」設立後、団体として電話相談や直接支援、行政との交渉以外にも、自主避難者の現状を広く伝えるための情報発信、避難者同士はもちろんさまざまな脱原発運動の団体への情報共有などを主たる業務としておこなっている。
その流れで、ドキュメンタリー映画「ふたつの故郷を生きる」(監督・中川あゆみ)にも、避難の協同センターが出演した。

避難の協同センターが開設した原発事故で避難中の方からの電話相談「避難者住宅問題緊急ホットライン」の様子(写真提供:避難の協同センター)

相談対応中の松本さん(写真提供:避難の協同センター)

ただ、なかなか思うように支援が進まないと感じることが多いのだという。
その阻害要因のひとつは、情報の壁、個人情報保護の壁だ。福島県は自主避難者がどこにいるのかの情報把握に積極的ではなく、また支援機関に避難者の情報は共有されない。そのため、自主避難者同士でもお互いの状況を相談しあったりすることも困難になっている。

また、2012年12月に住宅の無償提供の新規申し込みが打ち切られた結果、それまでに避難した方と、それ以降に新たに避難した人との分断も生んでいる。

「それと、もっと根本には社会がこの問題に対しての無理解があると考えています。たとえば放射能汚染というトピックひとつとってしても、さまざまな見解が飛び交っています。
『いつまで放射能を気にしているんだ』『賠償金をたくさん貰っているんだろう』など、特にお金にまつわることで分断が強まっていると感じています。避難住宅の無償提供についても、その人のやむを得ない状況をまったく思い至らずに『いつまで甘えているつもりなのか』と、強い言葉で非難される。それはもう差別ではないかと。そういった無理解や分断を埋めることも、重要な活動だと考えています」
(瀬戸さん)

「難しい状況であっても、避難者と支援者で声を上げ続けたからこそ、この問題が少しずつクローズアップされてきたのだと思います。住宅提供も、なんども期限が宣言されたものの、私たちの地道な活動もあって一年・一年と伸びていきました。私たちが黙っていたら、たぶんもっと早く打ち切られていたと思います。こんなふうに問題を可視化させ、『終わっていない』『終わらせない』ことが大事だと思います」(松本さん)

孤立化を防ぎ、問題を「終わらせない」

震災から8年。
早々に帰還するなどした方がいらっしゃる一方、今だ戻れず新しい生活にも踏み出せない方が抱える困難さは増している。

災害救助法に基づく住宅支援は1年ごとの更新が前提だ。だが、これは長期的な対応を必要とする原子力災害にはそもそも対応していない。「1年ごとの住宅更新」で想定されていたのはいわゆるプレハブ住宅であり、みなし仮設(民間賃貸住宅の借り上げ)は想定外だった。
実態として不必要な更新制が、そもそも不安定な状態におかれた避難者を、さらに心理的に追い詰める結果となっている。

「自主避難された方の中で、去年7月の終わりに公園でホームレス状態になってしまった方がいらっしゃいました。この方は二年前に住宅の無償提供が打ち切られ、福島県から出ろと言われ、路上に出ざるを得なくなってしまったんです。連絡を受けて、すぐに生活保護申請をおこない、シェルターへ繋ぎました。このような緊急宿泊支援のニーズはもちろん、アパート入居の際の初期費用を支援する仕組みなどを準備しています。また被災者同士の孤立化の問題も深刻で、そういった方の交流の場を作っていかなくてはならないと思います」(瀬戸さん)

今回の東京アンブレラ基金での協働では、そのような場合での緊急宿泊支援はもちろん、問題を『終わらせない』ための広報・啓発の部分でも連携したいと語る。被災者を支援する団体で、国や県に対し対等に提言している団体は実は少ない。実態の把握と、それに基づいた政策提言を今後も続けていきたいという。

「被災者として、私が早い段階から顔出しをして代弁することで、可能になったことが多かったと感じています。自主避難者の生活が少しでもよくしていくため、今後も出来ることがもっとあると思います」(松本さん)

震災をきっかけに、全く無縁だった市民運動の渦中へ飛び込んだ松本さん。
当事者として現状を語り、また瀬戸さんを始め、たくさんの協力者と出会うことで、支援の輪を広げていった。
国や企業と鋭く対峙しながら、分断を埋めこの問題を「終わらせない」ため、松本さんたちの地道な活動は続いていく。[了]

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【写真提供】避難の協同センター
【参考】稲葉剛「住宅困窮へと追い込まれる原発事故避難者」(WEB論座)
【編集協力】松島摩耶
【取材・執筆】 佐々木大志郎:つくろい東京ファンドにて広報&資金調達担当。東京アンブレラ基金事務局。そのほか複数のNPOやプロジェクトで広報やファンドレイジングを掛け持ち。

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