「規約だから」で思考停止する善意のyoutubeBAN活動家たちの愚かさ

 この春から「#ネトウヨ春のBAN祭り」なる活動がネット上で行われている。動画サイトのyoutubeにアップロードされている動画に、いわゆるヘイトスピーチが含まれているものを、youtubeの規約違反だと運営に通報し、掲載を削除させ、そのチャンネルや運営者の活動も停止させようというものだ。いわゆる「BAN」を目指す活動だ。
 5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)から始まったこの活動は、実際に通報したらそれら動画が次々とBANされる(結果が目に見える形で反映される)ことで激化し、言ってしまえば頭に乗った通報者が次々と現れることで、30万近い動画が掲載削除されるという実績を残すこととなった。
 そして今日、それらヘイト動画の総本山と目されていた、登録者数48万人を数えるKAZUYAチャンネルのBANをもって、ピークに達したと言えるだろう。

 KAZUYAチャンネルに実際どういう規約違反があったのか、それは適切なのか、事実なのか、それを単なる視聴者である自分が特定することは難しい。著作権のある動画や音楽を無断利用したとかいろいろ言われているが、そこには今回は立ち入らない。また、いわゆるスリーアウト制度(違反事項の指摘が3回溜まると、動画削除にとどまらずチャンネルも閉鎖される)についても、立ち入らない。
 今回はBANが適切なものかについて「規約だから」で思考停止をしてしまう通報者たちの問題について取り上げたい。

 通報者たちに「通報した動画やチャンネルのなにが問題なのか?」と聞いても、具体的な話が出ず、単に「規約だから」としか返ってこないことが圧倒的に多い。
 主に「規約だから」「文句があるなら使わなければいい・他を使えばいい」「民間企業のサービスに多くを期待しすぎ」、このあたりだろうか。

1.「規約だから」

 規約や規則というものには、当然、それが作られた理由や経緯がある。国の法律もそうだが、普通に生活していて抵触しない限りは、意識することも無いかもしれない。問題なのは今回のように抵触する可能性があると考えられる場合だ。その場合、それがなぜ、どういう理由で設けられたものなのか、その妥当性、正当性、公平性について検討し納得せず、ただ従うのは、まさに思考停止と呼ぶにふさわしい愚行だろう。
 たとえば日本国には大麻取締法という法律があり、無許可の大麻の生産や所持が犯罪とされる。だが世界的には大麻の効能というものが前向きに評価され、犯罪化を止め、合法化しようという動きが進んでいる。それなのに今でも日本では「大麻は犯罪だから」で思考停止している人が圧倒的多数だ。
 そもそもなぜ大麻が違法なのか、なぜ今になって諸外国では見直され合法化されていってるのか、過去からの経緯や理由について細かく述べるのは、本論の趣旨ではないので、今回は行わない。だが法律や規則、規約について、その妥当性については常に検討する姿勢を持つのが、理性を持つ人間として当然の姿だ。そこで「決まってるから」で思考を停止するのは、正しい姿なのだろうか?
「規約だから」で済まそうとしてる人は、では「ハゲは使用禁止」と言われたら、どうするのか? それでも「規約だから」と従うのか? 「男は使用禁止」「リベラルは使用禁止」、なんでもいい。今回の件で言えば「ヘイトスピーチだから」という理由をちゃんと述べるべきだし、そこまで言うなら、ではその通報する動画のどこがどう具体的にヘイトなのかも述べる必要がある。それも言えないのにただ単に「規約だから」で済まそうとするなら、それは「私は何もわかってません、言われたことにただ従う人間です」と言ってるようなものだと考えたほうがいい。

2.「文句があるなら使わなければいい・他を使えばいい」

 ここで問題になるのが「文句があるなら使わなければいい・他を使えばいい」という発想だ。これが国の法律であるなら、主権者たる国民である自分たちには、その妥当性について異議申し立てをする権利を有する。それが「主権者」という言葉の意味であり、権能だからだ。
 だが今回は、Google社という一民間企業が運営しているyoutubeという一つのサービスの問題だ。資本主義において企業運営に対し主体的に口出しを出来る「主権者」は、企業の所有者たる株主のみだ。ユーザーや消費者は、あくまでもそれを利用させてもらってるだけであり、主体的に関われる立場にはない。
 では規約に文句があるから他を使えばいい、で済む問題なのだろうか?

 ニコ生の方の記事を見ると、2017年12月末での有料会員数は214万人とのこと。youtubeの視聴ユーザー数は2017年6月のこと。
 視聴ユーザー数と有料会員数では比較にならないと言われるかもしれないは、それにしても桁が違う。実際の視聴数にしても、リーチする対象人数にしても、その桁が全く違ってくるのは、明らかだろう。
 いまやyoutubeはこの地球上において、絶対的・圧倒的に一強の地位を占める動画サイト、言論プラットフォームだ。ここから除かれるのは、国家規模で意図的にアクセスを禁じている中国くらいしか無い。
 なぜ中国政府がyoutubeへのアクセスを禁止しているのか? 政府にとって都合の悪いことを国民に見させない、世界に発信させないためだ。それだけの力があると政府が認めればこそ、規制しているのだ。この一強からの排除は、中国国民の言論なり発言を世界中に届ける機会から排除し隔離することと同じだ。
 実際にyoutubeは、twitterやfacebookと並び、2000年代に起きた中東での政治動乱「アラブの春」の原動力の一つとなったことは、まだ記憶に新しい。複数の国家の有り様を変更させるだけの力を持つのが、youtubeを始めとする全世界規模のSNSの持つ力なのだ。
 そこから追放し「ニコニコでもなんでも、受け入れてくれるところを使えばいい」というのは、そうした世界規模の力、世界規模の言論の場での発言権を奪い、追放し、あなぐらの中で叫べばいいと言ってるのに等しい。言論の自由とは誰も聞いてない穴に向かって言いたいことを叫ぶ権利ではない。意見を届ける他人がいて成り立つものであることを忘れちゃいけない。
 こうした規制をして言論が他の人に影響を与えることを阻止したいというのは、中国政府と同様の発想だろう。youtubeでいわゆるヘイト動画があふれることで、見た人がネトウヨ化することが問題だという人がいるが、それは、中国政府が天安門事件の真実を知られ反政府主義者化することを避けたいと言ってるのと同じだ。
 なんらかの特定の考え方や思想に染まられたら困るからといって見せない、触れさせないのではなく、触れる自由を保証した上で、それは問題だと説得するのが、公平というものではないだろうか? ネトウヨのヘイトに感化されるような人がいたとしたら、それはその人自身や環境に、何らかの問題があるのでは? それを解決せずただヘイトを「隠し」ても、別の機会に見かけたら、容易に感化されるだろう。大事なのはヘイトに触れても感化しないようにすることであって、見せないことではない。感化しないようにする努力を怠って隠すのは、中国政府がやってることと同じだ。

3.「民間企業のサービスに多くを期待しすぎ」

 これらの問題を、民間企業の自由な裁量権で済まそうとするのも問題だ。いまや国家の運命すら変えるほどの影響力を持った企業であるGoogle社や、その提供するサービスであるyoutubeは、一民間企業のサービスだからで済ませられる話ではない。
 これについては先日話題になった政府の水道民営化の話がわかりやすいと思う。今回出た水道民営化論は完全民営化とは程遠いものだったが、もし水道が完全に民営化され、それに「民間企業だから好きにして良い、規約に従えないなら使わなければいい、他を使えばいい」という考え方が適用されてしまったら、どうなるだろうか?
 たとえばある地域の水道株式会社の経営者や株主が「ネトウヨはこの地域から出ていってほしいから、ネトウヨへの供給は停止する」と決めたとする。クリーンで差別のない街づくりを目指すことにしたのだ。
 水道が停止されたって自分でタンクを設置しタンクローリー車で水を運んでもらう選択肢はあるよね? ヘイトスピーチをするような人は使えないという規約に従うなら使ってもいいよ。民間企業なんだから、規約に文句があるなら使わなけれないいんだよ……。
「いやいや、生存に関わるインフラと、ただの動画サイトを一緒にするな」という意見が来そうだが、ここでyoutubeは国家の形そのものを変えるほどの力を持つことを、思い出してほしい。

 言論の自由は、衣食住を始めとする生存権と同じか、いや、それよりも大事な、すべての権利の中で最大級に重要な権利と言っても、過言ではない。なぜなら、人間とは、言葉で物事を規定する動物だからだ。今あなたが読んでいるこの文章も、言論だ。日本国憲法だって丁々発止の言論のぶつかり合いによって生まれてるし、国会での議論だって、言論だ。その言論をもとに法律は作られる。
 言論こそが、人権とはどういうものであるかを定義し、形作るおおもとなのだ。
 言論の自由の権利というのは、衣食住を支える水道以上に守られなければならない、重要な権利と言って良い。それを制限するというのはよほどのことであり、一人ひとりが、なぜそれを制限するべきなのか、もしくはしないべきなのかについて、ちゃんと考えるべき内容だ。それをせずに「規約だから」とか「とりあえず通報してあとは民間企業の判断にお任せー」なんて安易な考えで通報行為を行うのは、他人の権利への侵害について軽く考えてる、愚かで、無責任な行為だと言いたい。

 他人から言論の自由を、それがたとえあなたが「そんなの言論ではない、ヘイトだ」と考えるものであろうとも、その発言権や発言の場所を奪おうとするなら、それだけの覚悟と責任を持って、行ってもらいたいと思う。将来的にヘイトの定義が変わり、今度はあなたの思想や発言がヘイトと叩かれ、弾圧されることがあっても、一度「この世には禁止すべき言論や発言がある」という立場に与した以上、あとは定義の問題であって、言論それ自体の抑圧や弾圧を批判できる立場に戻れないことを、忘れないでいただきたい。

 最後に、ではKAZUYAチャンネルは、本当にBANされなければいけないようなチャンネルだったのか? 何度かしか見たことがないが、単なる罵詈雑言や差別とは違い、自分は同意は出来ないけど、一理ある主張をしていたと思う。今となっては見返すことも、再検討することも出来ない。これもまた、言論自体を弾圧・封圧して見えなくすればそれで解決なのかという、一つの問題提起になると思う。見れなければ内容について検討すらできなくなるのだ。「ヘイトだからそれでいいんだ、検討の必要なんかない」これもまた、思考停止だろう。

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