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猪飼せんぱいは良いにおい

午後から気合いを入れて仕事するために、コーヒーを淹れてデスクに着いた。すると、ちょうど向かいのデスクの猪飼(いかい)さんが昼食から戻ってきた。

いつもながらの、どことなく小動物を思わせるような足取り。隣を通り過ぎる時に、ふわっといい香りが鼻をくすぐった。僕は、にやけてしまいそうなのを堪えるために、わざと快活に話しかけてみた。

「猪飼さん、お疲れさまです。お昼はどこで食べてきたんですか」

「えっ……、どこって、そのへんのご飯やさんだけど」

猪飼さんは戸惑ったように答えると、デスクの上からバタバタと資料を抱えて風のように部屋を出て行ってしまった。

「あーあ、また失敗ですねー」

斜め前のデスクの文ちゃんが、ニヤニヤしながら見ている。

「若松さん、猪飼さんの事狙ってるんですか? いっつも話しかけては、かわされてるみたいですけど」

「狙ってるだなんてそんな! 単に同じチームの一員として、風通しを良くしたいって言うか……」

「えー? まあ、そういう事にしておきますか。でも、猪飼さんって本当に人見知り激しいですよね。仕事は凄いできるのに」

「文ちゃんにもあんな感じ?」

「はい。仕事上のやりとり以外は、ほとんど話さないですね。お昼を誘おうと思っても、そそくさと一人で外行っちゃいますし。若松さん、しっかり猪飼さんを落として下さいよ!」

「何言ってんのもう! さ、仕事仕事」

文ちゃんもいい子なのだが、いかんせん恋愛脳というか、何かというと僕と猪飼さんを、くっつけたがるきらいがある。確かに僕は猪飼さんの事が気になっているのだけれども、それは文ちゃんが期待しているような理由ではない。

ともあれ、仕事の上でも猪飼さんと、もっとコミュニケーションを取りたいというのは間違いない。なんとかしなくちゃなあ、と考えながらも、なかなか心すら開いてもらえない日々が続いていた。

――ひょっとしたら、本当に嫌われてるのかもなあ

僕は、すっかり香りが飛んでしまったコーヒーを、一気に飲み干した。

***

あくる日、僕は朝から得意先回りをしていた。得意先の多くは同じ市内に固まっているので、続けて訪れる分にはありがたい。しかし、田舎の小都市を飛び回るには車が必須だった。僕は、エアコンを適度に効かせて車を運転していた。

午前中の予定分を周り終え、大月線を通って会社へと向かう。昼休みの時間帯に差し掛かっていたこともあり、道はそこそこの混み具合だ。と、手前の信号が赤に変わり、僕は先頭で信号待ちをすることになった。バックミラーに目をやると、車列がかなり後ろまで続いている。

お昼は何を食べようかな、と考えていると、突然ガチャリと後部座席のドアが開いた。びっくりして振り返ると、派手なギャル風のメイクをした女の子が、当たり前のように座席に乗り込んできた。

「あー、中は涼しいー。やっぱ車だよねー」

「え、ちょっとちょっと! 君、誰? 車間違ってない? てか信号待ちの最中なんだけど」

僕が慌てていると、今度は助手席のドアが開き、同じようなファッションに身を包んだ女の子がもう一人入ってきた。

「はーいお兄さん。じゃあご飯食べにいこ? おいしい店知ってる?」

「は? 君も誰? 何勝手に入ってきてんの」

「まあまあ」

「まあまあじゃないよ。大体運転中に危ないじゃ……」

「あ、信号変わったよ。ほらほら、後ろに迷惑じゃん?」

信号は既に青に変わっている。後ろには結構な車列。こんな良くわからない事で迷惑をかけるわけにもいかない。僕はとりあえず車を発進させるしかなかった。

助手席のギャルAは当たり前のように聞いてきた。

「それで、どこ行くわけ?」

「ウチら別に遠くまで行ってもいいよ。お兄さん何か食べたいものある? てかなんて名前?」

「いやいや、待てよ。そもそも君ら何で乗ってきてんの」

「何って、ナンパ」

「ウチら午後暇でー」

「ナンパって。いきなり誰かもわからない男の車に乗るとか危ないだろ」

「でも乗せてくれたじゃん」

「そういうの、ウチら見る目あるから。お兄さんいい人そうだし、弱そうだし。手出してきてもなんとかなりそう?」

「なんだよその自信。そもそも手出さねーよ」

「あはは。ウケる」

ウケるじゃねーよ。なんなんだコイツらはと心の中で思いながら、僕はパワーウィンドウのスイッチを押した。

「うわ、急にこっちの窓まで開けないで。何? タバコ?」

「髪ボサボサになるから窓閉めて欲しいんだけど?」

「タバコなんて吸わないよ。君らが臭いの。香水。匂いが苦手なんだよ」

実際、車内は2人の香水の臭いが充満していた。甘ったるいミルクのような香りがエアコンのために締め切っていた車内に漂っている。後部座席のギャルBは、自分の手首をくんくん嗅いで確認している。

「そんな匂う? 鼻良すぎじゃない? 犬? てかいい匂いじゃん」

「ねー。でもそういうの苦手な人もいるかー、なんかゴメンねーお兄さん。じゃあお昼も無理だねー。適当に停めて? 私ら歩いてくし」

「そだねー。乗せてくれてありがとねー」

急に物わかりが良くなった2人に調子を狂わされた僕は、この無法者達になんと言っていいのかわからずに途方に暮れた。

***

「えー! 信号待ちの車にいきなり乗り込んでくるなんて、南米のギャングの手口じゃないですか! で、どうしたんですか?」

ぐったりとして帰ってきた僕に、文ちゃんはお茶を出してくれた。猪飼さんはといえば、既に一心不乱に黙々と伝票整理に取り組んでいる。

「どうもこうもないよ。その辺に捨ててくわけにも行かないし、結局ラウンドワンまで連れてって降ろした」

「うわー、いい人ー。惜しいことしたとか思ってるんじゃないですか?  ひょっとして、LINE交換とかまでしてたりして」

「してないって。名前すら聞いてないよ」

文ちゃんはそのまま僕のデスクの横に腰を落ち着けると、さらに追求してくる。

「本当ですかー? 実は可愛いかったとか? じゃなきゃ普通、送っていったりなんてしませんよー」

僕は、一瞬言葉に詰まった。実際、2人は結構可愛かったのだ。すると、猪飼さんがチラリとこちらを見た――気がした。僕は大慌てて否定した。

「いやいや、可愛い可愛くないの前に、子供だよ。見た目もそうだし、あんな無鉄砲な事するなんてさ。だいたい僕は年下は興味ないんだ」

「へー、本当ですかー?」

文ちゃんは、やけに楽しそうだ。

「本当だって。なのにメイクだけはガッツリしててさ、背伸びしてる感ありありで香水の匂いまでプンプンさせて。災難だったよ」

「ふーん。香水かあ。私もたまに着けてきますけど、やっぱりわかります?」

「ああ。着けている時はわかるよ。昔から僕は、妙に鼻が効くんだよ。香る柔軟剤レベルでも苦手だし、ここだけの話、厚化粧の人とは話すだけでも辛くてさ。酒井部長とかね。文ちゃんくらいだったら、全然大丈夫なんだけどね」

「そうだったんですか。あ、いちおう酒井部長の件は聞かなかったことにしますね。ふうん。さて、じゃあ午後のお仕事しますか」

文ちゃんは、やっと自分のデスクに帰っていった。

――やれやれだ。それにしても香水。香水かあ。なんで僕はこう、匂いに敏感な体質なんだろうなあ。

無意識に、ちらりと猪飼さんに視線が向かう。そして僕は、妙な体験と文ちゃんの追求から解放された安堵感からか、ついつい、いつもは心の中だけで思っている言葉を、ポロリと口から出してまった。

「……でも、猪飼さんは、いつもいい匂いがしますよね」

と。

自分の口から出た言葉に気付いたときにはすでに遅かった。文ちゃんは、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がって身を乗り出し、爛々と輝く目で僕を見ている。恐る恐る猪飼さんの方を見ると、こちらを見たまま涙目で声すら出せずに固まっている。心なしかその顔は青ざめているようだ。

「違います!! そういう意味じゃなくて、あの、美味しそうというか」

文ちゃんの目が一気に曇り、汚い物を見るような冷たいものに変わった。

「え……まさか下ネタ? 若松さんサイテー」

「違……! 違うって、本当に毎日昼休み明けにいい匂いが……」

「毎日? 毎日って、うっわー。毎日そんな目で猪飼さんを見てたんですか。えーと、ハラスメント相談室の内線番号は……と」

「待って! 文ちゃん誤解だ! 違うんですよ猪飼さん!」

僕は必死に文ちゃんを止めながら、猪飼さんの方を見た。

猪飼さんは相変わらず固まったままだった。しかし、先ほどとは固まり方の種類が違っていた。それは、まるでキャベツを前にしたウサギのような固まり方だった。目はまん丸、耳はぴくぴく、こころなしか前のめりになっている、そんな期待に満ちた固まり方だった。そして、ポツリと言った。

「若松くんて、いやしいのね」

今度は僕と文ちゃんが固まってしまう番だった。

「い……いやしい?」

僕は思わず、猪飼さんの言葉を繰り返した。猪飼さんはそれを無視して、勝ち誇ったような顔で続ける。

「バターチキンカレーなの」

「え」

「今日のお昼。……美味しかった」

猪飼さんは、うっとりとして目を瞑ると、頬に両手を当て、幸せそうに何かを反すうしているようだった。すると、猪飼さんの方から思わず鼻をひくつかせずにはいられない、いい匂いが漂ってきた。

――この匂いは……タンドリーチキンをココナッツミルクとスパイスで煮込んだカレーの匂い? いや、それだけじゃない。生クリームを使ったとしても、ちょっと濃厚すぎる。もっと圧倒的だ。まるで焼きたてのパンの上にとろけるバターを乗せた時のような……。

「そうか……。これは、ナン!! しかもチーズを練り込んだチーズナンですね!!」

猪飼さんは、こっくりと頷く。文ちゃんは意味が分からないのか、首を傾げている。

「実は私も、とてもいやしくて、食べることばかり考えてしまうの。朝ご飯を食べながら、お昼は何にしようか考えてしまったり。私ね、おいしい物を食べている時が、一番幸せ」

「わかります」

僕は力強く頷いた。僕の場合は、味というよりは、漂ってきたり、湧き出してくる香りを堪能している時が一番幸せだという違いはあったが、その情熱は良く理解できた。

「もしもし? お二人とも……?」

文ちゃんは、ひとりだけ置いてきぼりをくらって戸惑っている。

「それだけじゃなくて、私は変な体質みたいでね。美味しかった思い出を頭の中で反すうして楽しんでいると、その匂いが体から出ちゃうみたいなの」

「なるほど! それで毎日お昼ご飯の後は、あんないい匂いが!」

猪飼さんは恥ずかしそうに頷いた。文ちゃんは鼻をくんくんさせて首をひねっている。

「だから、会社ではなるべく人目を避けてたし、ランチミーティングも避けてたわ。お昼ご飯を食べた後は、特に慎重に誰とも顔を合わせないで仕事の事だけを考えるようにしていたの。2人とも、今までそっけない態度になっちゃってて御免なさいね」

僕と文ちゃんに向かって、猪飼先輩はぺこりと頭を下げた。そして照れくさそうな顔で続ける。

「でも、私はいやしいから、どうしてもお昼のことを反すうしてしまうの。会心のランチの時なんて特に。それがすごく恥ずかしくて、ますます仕事に打ち込んでたから……でも、」

猪飼さんは、がばりと顔を上げて、僕を見つめてきた。

「でも、さっきの若松君の言葉を聞いて気が付いたの。あ、ひょっとしたら若松くんも、いやしいのかもしれないって。……そうなんでしょ?」

探るような目つきで心配そうに訪ねる猪飼さんに、僕は力強く答えた。

「はい。僕もいやしいです!」

「えぇ……」

文ちゃんは、そんな様子を当惑しながら見ていたのだけれども、僕たちが、がっちり握手するに至ると、拍手までしてくれていた。

***

「じゃあ若松くん、行きましょうか」

「はい!」

あれ以来、僕と猪飼さんは一緒にランチをするようになった。ご飯のことを隠す必要のなくなった猪飼さんとは、以前とは比べようもないくらい打ち解けられるようになった。

2人して、時には文ちゃんも一緒に3人で全力でお昼を食べ、昼休みいっぱいまでその余韻を楽しむ。新たな店を開拓したり、時には会社にIHヒーターを持ち込んで、猪飼さんが持ち込んだ食材を会議室で料理する事まであった。

猪飼さんと文ちゃんは料理ができたが、僕はからっきしなので、出張に出る度に各地の名物を買ってきては、おやつとして提供するのがすっかりおなじみになった。

そして今日も、猪飼さんと2人でランチに出かける。エンジンをかけてシートベルトを締め、エアコンが効くまで窓を開けようとして、止めた。

「今日は何食べましょうか」

「うーん。暑いしお蕎麦はどうかな」

「決まりですね。じゃあ、『たぬき』にしましょう」

「ちょっと遠くない?」

「昼休み中には帰ってこれますよ」

僕たちは、富士山方面に向かって車を走らせた。

「それにしても、猪飼さんがこんなに明るい人だとは思いませんでした」

「ふふ。本当に頑張って隠してたからね。でも結局出ちゃうのよね。若松くんも」

「そうでしたねー」

「でもね、私、いやしい人って、何か信頼できるの」

「え? 何でですか」

「だって、食べ物を前にすると、嘘がつけないじゃない? 頑張っても隠し事ができないから、安心して付き合えるわ」

「んー、そういうもんでしょうかね」

「そうだよ。若松くんだってそうでしょ」

猪飼さんは楽しそうに僕の顔をのぞき込む。僕はその顔を見ないようにして答える。

「わかりませんよー。現に今、僕は猪飼さんに隠し事してますから」

「そうなの? まあいいけど。どうせそのうち言っちゃうんだから」

「それはどうですかね」

そう答えて運転を続けた。だけど僕は知っていた。きっともうすぐ近いうち、僕は、その隠し事を言ってしまうんだろう。

車の中は、甘い甘い匂いが満ちていた。

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