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ルリチギリ

 私はひとり、部屋の中、壁にもたれて座っています。

 薄闇の中、唯一光っているのは床に投げ出されたスマートフォン。

 ピロリン、ピロリンと何事かを告げるそれを見ることはできず、逃げるように窓の外へと視線を向けました。

 星の瞬く雲ひとつない夏の夜空。開け放した窓からは、涼しげな風が誘うように吹き込みます。

――今夜の花火はとても奇麗なのだろうな

 私はひとり、部屋の中、夜空に咲く大輪の花を思い描きます。

 はじめは黄色。しゅるしゅるぱりぱりと音を立てて上がったそれは、やがてどぱんという低く震える音と共に姿を変え、赤・みどり・そしてまた黄色に紫と色を変えながら、大きな円となりあっさりと消えゆきました。

 そんな花火が、いくつも、いくつも上がり、夜空を彩るのでしょう。

――一緒に見られたら、とても素敵なんだろうな

 私はひとり、部屋の中、左手の小指を見下ろします。

 私の小指。ともに花火を見る約束をした小指。その小指は今、包帯でぐるぐるまきにされたように膨らんでいます。がんじがらめに、動かぬように。

 約束をしたあの日から、あの時から。行けぬことを知っていながら小指を交わした私をいましめるように。しゅるり、しゅるりと白い糸が巻き付き始めました。

 乱暴なように、投げやりなように、ぐるぐる巻きにされたその糸は、しかし、整然としているようにも見えました。小指に沿って、まるく、まあるく巻き付いたそれはまるで蚕の繭。約束の日が近づくにつれどんどんと大きくなってゆきました。

 私はひとり、部屋の中、壁掛け時計を見上げます。

 待ち合わせまではあと5分。待ち合わせの場所までは20分。もう、どうやっても間に合いません。その事を私は寂しく思い、そして、少しだけほっとしました。

 小指がもぞりと動きます。

 驚いて目の前に手をかざすと、確かに繭は動いています。私の意思に関わらず、小指が自分で動いているかのように。

 あと4分。繭に小さく、小さく亀裂が産まれました。始めは小さな点のようだったそれは、やがて一本の線となります。

 あと3分。静かに亀裂を割り、中から何かが這い出てきます。まだ何ものかもわからないそれが、しずかに、しかし、ゆっくり確実に繭を押し上げて。

 あと2分。繭から出てきたそれは青い蝶。徐々に広がる濡れた翅は、涼し気な夜風に揺れて青い輝きを増していきます。

 あと1分。蝶はすっかりと翅を広げ、繭のてっぺんへと向かいます。出て来た時と同じように、しずかに、しかし、ゆっくりと確実に。

 私はその蝶に願いを込めます。ルリチギリ。約束の蝶よ。動けない、動かない私の代わりに飛んで下さい。そして、できれば彼の元へ。

 約束のとき。蝶は2、3度大きく羽ばたくと、しずかに、しかしゆっくりと飛び立ちます。窓をするりとすり抜けて、煌めく蒼い軌跡を残して、まだ花の咲かぬ夜空の向こうへ。

 その勇敢な蝶は、飛び立っていったのです。

 私はひとり、部屋の中。壁に凭もたれて座っています。

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