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寂しさは翼を得て

2021.4.20.Tue Sky日記

雨林のキャンマラの途中。その子が突然僕に尋ねた。
「男の子が男の子を愛するのは間違ってると思う?」
いくつか質問の意図を思い浮かべて、そのどれもに対する答えとして、僕は
「いいや、間違ってない」と答えた。

その子はしばらくしてから
「男の子を好きになってしまった」と言った。
ちょうど神殿の前、3つ目の橋を上げたところ、光の子がいる場所だった。
手が離れ、立ち止まる場所。
たぶん、手を引いていた僕が返事をしやすいように。もしくは、そのまま離れてもいいように。

僕は「誰かを愛することは素晴らしいことだ、何も間違ってない」と返した。
人は、誰も愛せないほどぼろぼろになることだって、愛する人に会うためにその日を生きることだってある。誰も愛せない孤独も、誰かを愛する素晴らしさも僕は知っているから、そう返した。

その子は「でも、家族に言えないんだ」と言った。
僕が返せることのなかで、英語で伝えられるものを探した。

伝えたいものは、言葉では足りない。それでも言葉にする。
英語は情報しか伝えない(low context language)。でもその分的確だ。
今の僕に何ができる。

「互いを理解するのは難しい。たとえ家族でも。
でも”理解しない”ことは”愛していない”ということではない。理解しなくても、家族は君を愛している。」
と僕は言った。

その子はちゃんとわかっていて、
「うん、ちゃんと知ってるよ…」と言った。
でも、と言いたそうだった。
その後に続く言葉を僕はよくわかっていた。
僕はそのまま「でもsad(寂しい、悲しい)よね」と続けた。

その子はYes、と答えた。
愛されているとわかっている、でも寂しい、苦しい、悲しい、
そして誰にも言えない。
言ったところで状況は変わらない。
そんな気持ちが臨界点を超えて、その瞬間が今で、隣にいる僕にこぼしてくれたんだろう。
名も顔も知らない僕に出来ることってなんだ。

僕も寂しさ悲しさに苦しんできた。
でもこの子より2年ほど長く生きてる。
どうやって生きてきた。どうやって寂しさ悲しさと仲良くなったっけ。
そうだ、僕は寂しさ悲しさと友達になった。

僕の中には大きな街がある。
辛いとき、苦しいとき、退屈で死にそうなとき、僕は自分の中に街を作った。
最初は僕しかいない街だったけど、いつからか抱えきれない感情たちが形を持ってそこに住むようになった。

寂しさと悲しさは僕の中でおぼろげな輪郭を持ち、僕の中にある大きな街に住みはじめた。僕は最初、彼らを追い出そうとした。
姿形もろくに見ずにいじめて、お前なんて消えてしまえと言っていた。
するとなおさら苦しくなって、でも誰にも言えず、現実にも心の中にも、弱く居てもいい居場所がなくなった。

どれだけ追い出そうとしても、寂しさ悲しさは僕から離れてくれない。
彼らをいじめるのに疲れ果て、僕は観念して彼らに向き合った。
どんな姿形をしていて、どんな過去を持っていて、どこからやってきたか。

彼らは思っていたよりも個性的で、愛嬌があった。
彼らはよく涙と一緒にやってきた。
ふるさとはどうやら同じ場所らしかった。
寂しさも悲しさも、涙も、僕の大事なとこから生まれてきた奴らだった。
離れてくれない、消えてくれないんじゃなくて、彼らは僕の大事なとこから生まれてきて、”ただそこに在る”だけだった。

寂しさ悲しさは僕自身、僕の一部だった。
”そこに在る”ことは間違いじゃないように思えた。

ずっと存在してはいけないものだと思っていた。
僕を弱くさせるから。弱いことは駄目だと思っていた。
でも彼らを見つめてみれば、悪い奴らではない。
弱いのは悪いことではない。
弱い僕も、存在してもいい。

僕が本を好きになったのは寂しさのおかげだった。
僕が優しさを知ったのは悲しさのおかげだった。
僕が愛せたのは寂しさと悲しさのおかげだった。
本が好きで、優しくありたくて、愛していたくて、弱い僕も、存在してもいい。

そう思えたからこの子より2年長く生き延びてきた。



バーーーッとこのことが思い出されて、そうか、これを伝えればいいんだ、と思った。

「Sadだよね、それでいい。何も間違ってない。ただ感じればいい。」
「Sadは悪いやつじゃない、君の友達だよ。幸せや喜びと同じだ。」
「Sadは涙や痛みを運んでくるけど、いつか君のいい友人になる。」

その子は相槌を打ちながら聞いてくれた。
そして「そうだね」と言った。
「いい友達になってみせるよ」と言ってくれた。
「キャンマラを続けよう」とお互いに言って、手を繋いで飛んだ。
神殿前をまわり、晴れ間の火種をとってから、また神殿に戻る。
大きな闇の花の火をとってから、「まだ胸は痛む?」と聞いた。

僕はYes、と返ってくると思って言葉を準備していた。
でもその子は
「大丈夫、ましになったよ、あなたが手伝ってくれたから」と言った。
「ありがとう、良い夜を」と言って別れた。
ありがとうと言いたいのは僕の方だった。

まるで過去の僕が助けてくれと言いにきてくれたような感覚だった。
ひとりで、助けてくれと言えずに、
消えればいいと思っていた自分に、
光がさすような感覚。

救えなかった自分自身を、今になって救えるような経験。
Skyでは、たまにそんな経験が、彗星のごとく飛来する。 

傷は癒えない、痛みも消えない、
でも救われることはあるのだという事実は、希望そのものだ。
希望そのものが、星の子の形をとって僕の前に現れる。

人生でおきることは全て、大いなる伏線だ。
救えなかった自分を救えることだってある。

今の迷いも苦しみも痛みも、ままならなさも、情けなさも、弱さも、大いなる布石なのだ。
今自分が救えない自分も、いつかの自分が救ってくれると信じられる。
自分を信じられる。

そんなふうに思える経験。
それは希望そのものだろう。

寂しさ、悲しさ、苦しみ痛み、それは僕の一部だ。
消えろと言うんじゃなく抱きしめてよかった。

希望は、希望の形を取って存在するのではない。
寂しさや悲しさが涙を得て、成長した姿だ。
存在していい。

今救えなくても、前に進んでいい。
原罪に翼を返しに行くように、機会はやってくる。
いつか翼をあげて、抱きしめたら、それは希望に姿を変えていく。

あなたの寂しさは、今どこで何をしていますか。

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