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考察、解釈、想像と創造

2021.11.29.Mon #Sky日記

 羽ばたく季節のクエストを一気に進めた。
更新時間に追われながら、目まぐるしく変わる景色を目に焼き付けていく。穏やかな景色が暗転するたび、心折れそうになるのをDinoに笑われつつ、励ましてもらいながら進めた。
Skyにとっての考察というものが何なのかを、改めて考えた季節だった。

 Skyを楽しむ方法は星の子の数だけあるだろう。精霊を開放し尽くし、全部のエリアを回り、全部のアイテムを取り切っても、遊ぶ星の子がたくさんいる。気ままに飛んだり、異国のフレンズと交流したり、楽器を演奏したり。そのなかに、Sky世界について考察を始める星の子もいる。僕もその一人だ。

物語の続きを探す/取り落としたものを拾い上げる

 あらゆる物語には解釈と考察が存在する。物語があったとして、誰しもそれを一通りなぞって「これはこういう物語だった」と “解釈”する。しかしそれで満足しない場合がある。映画を観終わってから、主人公のあの言葉はどういう意味だったのかと疑問に思ったり、漫画を読み終わってから、あの人物はなぜあの武器を使っているのだろうと思ったり。読み終わった本を手に、作者はどんな人物なのだろうと気になったり。それらを初期衝動として、“考察”に進む者がいる。描かれている物事の由来を調べて解釈を深めたり、作者について調べ、その物語を俯瞰してみたりする。そうすることで、ひとなぞりするだけでは得られなかった物語の意味や背景を知り、新たな解釈を得ることができる。ひとつの作品から、いくつもの物語を得ることができる。考察とは、その物語の続きを探すようなものだ。
 Skyも物語だ。精霊ひとりひとりが語る物語、エリアを通して伝えられる物語、それらを紡いで見えてくる王国の過去の物語、そして星の子ひとりひとりに物語がある。そこには解釈が生まれる。そして、この骨はなんだろう、この楽器の模様はなんだろう、この精霊はなんでここで倒れているの、なんで星の子は目を閉じているの。そういう疑問を初期衝動として、考察が生まれる。

 受取り手にとって考察が物語の続きを探すことなら、作者にとって考察とはなんだろう。僕はSkyという物語の受取り手だけれど、そのSkyの二次創作で絵や文を描くようになって二次的ではあるけれど作り手にもなることができた。そうする中で思ったのは、考察とは作者が取り落としたものを拾うことかもしれないということだ。
 ひとつの作品で表現できること、伝えられることは、とても少ない。ひとつでも伝えられたら上出来だ。むしろその一つを伝えるために、余計なものを取り払わねばならない。今だってそう、「Skyにおける考察って、創造だね」ということを書き表したくて言葉を連ねている。すぐに話が脱線するから、余計な話を書かないように気を配る。
 作品を作るとき、たくさんのものを取り落とす。今だって「Dinoとクエストをやった」ということ以上のものを記録できていない。何を話したとか、クエストひとつひとつに思ったことも、取り落とす。いつか描くべきとき、書くべき場所ができるまでとっておく。物語を作るときも、登場人物の性格、過去、衣装、あらゆるものを時間をかけ詳細に定めたとしても、物語の中でそれを事細かに説明することはしない。粛々と伝えるべき物語を綴る。伝えたいものがちゃんと伝わるように情報を削る。大事なところだけを残す。物語を邪魔しないようにそっとヒントを残す。そしてたまに、受取り手の中に、拾い上げてくれる人がいるのだ。仕込んでおいたヒントに気づいて、作り手が取り落としたものを拾い上げ、行間や空白を読む受取り手。その行為が、考察と呼ばれたりする。

閉じた目の解像度

 伝えるべきものが伝わるように大事な部分を削り出して磨くことは、洗練させる、と言ってもいいかもしれない。
 Skyはとても洗練されている。情報を削ぎ落として作られている。羽ばたく季節のエリアも、とても美しかった。青と橙の対比が綺麗だった。でも草花の形はとても単純だ。どのエリアとも同じ、四角と丸の草花が揺れる。僕は風景から美しさや穏やかさだけを受け取りながら、草花に気を取られることなく、まず行くべき精霊がいる場所へと導かれた。
 シンプルで洗練されているあの草花や風景は、簡単に作られているのかというとそうではない。discordや配信で公式から出される裏話を聞いていると、あの風景が出来上がるまでにあらゆる資料集めと試行錯誤が繰り返されていることに驚かされる。風の街道の草花を表現するために高山植物について詳しく調べたというし、浮島の形を定めるまでに試行錯誤を繰り返したのだという。膨大な資料集めと試行錯誤を繰り返すことで、物語を伝えるために必要なものを見極め、それを削り出し、Sky世界は形作られている。Sky世界を飛び回るとき、星の子は洗練された風景から美しさや印象だけを受け取りつつ、その詳細に囚われることなく物語に集中することができる。

 そして物語を追いかけ、飛び回り、一息ついてふと改めて風景の美しさに気づく。目の前で揺れる、白く透けた丸い花のようなものはなんだろうとふと思う。風の街道を後にして、他の星の子と美しい場所だったねと話す。今の、秋の季節っぽい感じがしたね、ススキの原と青空みたい。確かにね、花のようにも草のようにも見えたな、花ならヤマブキとかかな。でも白く揺れていたのは綿毛のようにも見えた、高い山とかに咲く花はあんな感じなのかな。綿毛かあ、ポプラの綿毛とかにも似てるかも。それなら5月くらいの、あの気持ちのいい季節っぽく思えてくるね……星の子それぞれの中に、解釈された風景が生まれていく。Sky世界の、解像度が低いとも言える洗練さは、星の子に自分自身で解像度を上げて解釈する自由を与えている。そのとき星の子が使うのは感性という心の眼と、想像力という翼だろう。僕らは各々に想像する世界を飛び回ることができる。

想像と創造

 しかし最近、さまざまな要素が増えてきた。溢れるアイテムや要素の中から読み取れるものとはなんだろう。
 僕が生まれたのは魔法の季節の終わり頃で、あの頃は滅びた文明の気配と、微かな他者の気配を感じながら美しくも少し寂れた世界を飛び回っていたように思う。アイテムも少なくて、暗い道を照らすための花火杖と、フレンドと話すためのチャットテーブルをもらうために走り回っていた。いろいろなものに見慣れた頃、ふと足を止めて目の前に転がる倒壊した建物だとか、いつも使っているアイテムをまじまじと見つめて、そこに隠されているヒントに気付いたりした。そのひとつの気づきを抱えて改めて歩き回ってみれば、そこここにヒントが転がっていて、それら拾い集めて組み上げていくうちに突然、横たわっている物語が立ち現れたりした。
 最近新しいエリアが次々に現れ、フレンド以外の星の子と協力する機会も、キャンドルも、アイテムもさまざまに増えた。Skyの歴史に準じたものなのか、モデルとなっているものに意味はあるのか、判別が難しい。これまで微かに気配を感じる程度だった滅びた文明の詳細も、ストーリーを通してダイレクトに伝わってくるようになった。これまでの自分の解釈や考察と照らし合わせて、正解とはなんだろうと考える。
 公式や開発者が話してくれる情報を見ていると、Skyの歴史を示唆するために緻密に設計することよりも、開発者各々の感性や想像力を発揮して星の子たちのそれらを刺激することを大切にしているように思う。星の子ひとりひとりのなかに独自のSky世界が生まれるように、開発者それぞれにストーリーや解釈があり、皆楽しみながら創造している。

 増える要素のなかから読み取るべきものはあるのだろうかという問いは、星の子が解釈すべき正解や、Skyの作り手が準ずるべき正解はあるのだろうかという問いにも繋がる。
 Skyの公式は基本的に正解を明示しない。「このお面のモチーフはありますか、何の動物ですか」と尋ねたら、「モチーフはあります。何の動物かは、皆さんの想像にお任せします。ぜひ考えてみてくださいね」と回答がくる。真実や正解はない。開発者たちの創造が、星の子たちの創造に繋がることを大切にしている。正解が明示されないことで、僕は正解不正解に囚われることなく自由に解釈し飛ぶことができている。

 ただ、明示されない歴史の真相が垣間見え、その一方で増えるアイテムのモチーフにSkyの歴史との齟齬を感じることが増えてきた最近、戸惑うことは増えていた。そこに何か、読み取れるものはあるのか、ないのか。一貫するものがあるのか、ないのか。あってほしいと思う自分がいる。考察とは、作り手を信じることのようなものだからだ。
 その作品に、作り手が伝えたいものを表現していること。それを表現するために、かき集めたものがあり、取り落としたものがあること。その取り落としたものも、どこかに残されていること。そういうものを信じることを前提に、考察は始まるからだ。それらの前提が崩れるなら。ヒントを拾い集めながら作り手の足跡を追っていた僕はひどく滑稽なものだ。ヒントだと思っていた手の中のものは装飾に過ぎず、追いかけていると思っていた作り手の姿は僕が作り出した幻にすぎない。Skyはどうだろう。

 僕は、Skyに一貫するストーリーはあるが、その解釈は作り手の中で既にさまざまである、と思っている。明確な正解はない。これから先、公式に何か明確なものが発表されたとしても、それは作り手の解釈の一つ、と僕は思うだろう。幻を追いかけるわけではなく、正解に縛られることもなく、自由に考察し、僅かなヒントでは足りないところは想像力で解釈する。喜劇的に解釈する子もいれば、悲劇的に解釈する子もいるだろう。正解も不正解もない。Skyにおける考察は、創造だ。

umiと海のなかのひと

 ここまで考えて、「Skyの考察を始めた理由はこれだった」と気づいた。正解を導き出すことが目的ではなく、創造する自由がそこにあり、許されている。自分で楽しむのでもいいし、誰かと解釈について話してもいいし、絵でもいいし、文でもいいし、つぶやきでも、動画でもいい。そういうふうに、自由に表現しているSkyプレイヤーの方々を見かけて、僕も呟き始めたのだった。初めてSkyの考察ツイートに触れたとき、ちょうど一通りエリアを回り終わり、フレンドと交流して、キャンマラにも慣れ、景色は背景として見過ごしていたころだった。「なんとなく見逃していたこれを、注意深く観察したらこんなふうにいろんなものが見えてくるのか」とびっくりして、Skyの風景が全く新しい意味を持って見えるようになったのを覚えている。もう一通り読み終わってしまったと思っていた物語に、続きを見つけることができた嬉しさがあった。それはいわゆる二次創作というようなもので、いろんなゲームや漫画で一般的に行われていることなのかもしれないけれど、とても新鮮だった。
 良い表現とは、それを見たひとが「何かを表現したい」という気持ちになるようなものだと聞く。僕はSkyに触れて、Skyコミュニティに触れて、僕も何かやりたいと思って筆をとるようになった。きっかけとか、器をくれたSky、そして創造的な星の子さんたちに感謝している。

 最初に僕は自分のことを考察する星の子のひとりだ、と言ったけど、本当はそう思っていない。僕がやっているのは考察ではないと自分で思っている。僕は一次資料、つまりコンセプトアートや開発者のインタビュー、公式が発信している情報などを参照していないからだ。Sky世界にあるもののみ、Skyで語られる物語のみに基づいて想像しているから、解釈の域を出ていない。考察のようなものを投稿するときに、頑なに「Sky探索レポート」や「Sky探索日誌」と銘打っているのはそれが理由だ。
 一次資料を参照しないのは、調べ始めたらキリがないというのももちろん理由だけれど、純粋に星の子が何を見て何を感じているのかに興味があった。だから、僕ではなくて、僕の星の子が見るもの感じることを、自由研究みたいにレポートや日誌にまとめている。そういう感じだ。……ただ、探索レポート/日誌と名付けた後に調べたところ、Skyの星の子には”探索”する方々がいて、すごい飛行能力とアイテムを駆使してSky世界のあらゆる場所を探索してはいろんなスポットを発見していると知った。僕は……探索勢ではない……チャットテーブルを出したら遥か地平線の彼方に設置してしまうような星の子なんだ……悪しからず、本当に。ほんとにいろんな楽しみ方があるものだなあ。

 Skyに出会ったころ、僕はすっかり何かを表現する仕方を忘れてしまっていた。あるきっかけで、「そういえば自分は何か絵を描いたり文を書いたり、表現することが好きだった」と思い出してペンを取ったのだけど、何もかけなくて、数時間経っても白いままの紙を目の前に愕然として、途方に暮れたことがある。自分の言葉、自分の感じていること、自分という存在がどこにもみあたらず、自分のからだの中が空っぽなことに気づいたのだ。困った僕は今まで触れたことのなかったものに触れてみることにした。写真や音楽、スケボーやグラフィティ、絵やゲームやネット。その一部がSkyやTwitterだった。umiという存在は、僕の表現のひとつだ。僕の全部ではないけど、確かに僕の表現の一部だと思う。
 表現は、主張とは違うものだ。「ここにいるよ!」と叫びたいわけじゃなくて、「ここにいるね」と確かめるようなもので。僕はそれがしたかったんだと思う。「僕はここにいるね」「こんなことを思ったんだな」「これが好きなんだね」。探索日誌やレポートも、正しさや解釈を主張するためじゃなくて、表現にできていたらいいと思う。そうであってほしい。想像すること、表現すること、創造すること。僕は、表現者でありたい。

 存在しているだけで、さまざまな事象は発生する。僕を発生源として、わずかな波紋が常に発生する。他者に何かを思われること、レッテルを貼られること、枠にはめられること、影響を与えること。その他者には僕自身も多分に含む。その波紋に、存在がかき消されることがないように。生きていたい。
 良い表現とは、それを見たひとが「何かを表現したい」という気持ちになるようなものだと聞く。ある表現から、他者の創造が走り出すこと。Skyや星の子の表現に触れて、僕がまた走り出せたように、僕から生まれる波紋もそういうものであってほしい。海のなかのひとそのものが、そういう表現の発露でありたいと願う。

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