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『どうしてそんなに美しい』

ねむる前、マシュマロを開くと通知が来ていた。

タップすると、
「どうしてそんなに美しいんでしょうか」
という言葉が届いていた。

美しいメッセージだと思った。

2021.1.某日 Sky日記

『マシュマロ』という、匿名で相手にメッセージを送ることができるサービスがある。
他にも『質問箱』や『お題箱』など同様のサービスがあるのだけど、僕はTwitterのプロフィールにマシュマロを設置している。
5ヶ月ほど前、マシュマロがひとつ届いていた。

“どうしてそんなに美しいんでしょうか”

匿名だから、どなたが送ってくださったのかわからない。このひとが美しいと言っているものはなんだろう。
「美しいってなんだろう」
「どうして美しいものは美しいんだろう」
たくさん疑問が浮かんだ。
たくさんのことを思い出し、たくさんのことに気がついた。
簡単には返したくなくて、5ヶ月が経っていた。

まだ見てくださっているのかもわからないけど、僕の返信を書く。

『あなたが見ているのが、
ほんの一面をすくいとったものだから』
そして
『あなたが美しいと思うのと同じくらい、
くらく汚いから』

あなたが美しいと思ってくださったのが僕の言葉なのか、絵なのか、それらを透かして見えてくる僕自身なのか、いろいろ考えたのだけど、結局どれでも同じことだと思った。そのどれもが、確かに僕の一部であり、全てではない物だから、この答えにたどりつく。

表層をすくいとる

僕のTwitterは日記だ。
主にSkyというゲーム世界で起きたこと、思ったこと、感じたことを文や絵にして置いておく場所。
日記という私的なものを、僕はTwitterという開かれた場所に書くことにした。

理由はいくつかあるけど、一番はSkyで起きる出来事が僕にとってたくさんの意味があって、特別で、一人ではなんだかもう抱えきれなかったからだ。
過ぎる季節は二度とやってこない。毎日のように手を繋いでいた子との縁も、ある日唐突にその形を変える。美しい景色もお気に入りの場所も寝て起きたら消えていたりする。出会えば別れる。ならせめて今を精一杯見て感じていようとする。でも目まぐるしく変わる中、出来事は時間に流されていく。忘れられていく。意味を持ったまま、遠ざかる。
それが辛くて、忘れないように離さないように書き留めたり思い出したりするけど、今度は手の中で持て余す。次に起きる出来事を取り落とす。でも生きて前に進まなきゃならない。何より、僕の中で見出された意味とか特別さだから、観測者が僕一人だとその記憶は存在している意義があるのか、そもそも存在しているのか、なんだかもうよくわからなくなってくる。
だから言葉や絵という形にして、体の外に、Twitterに置いていくことにした。

誰かが見るなら、受け取ってくれる人がいるなら、贈り物のようにして置いておきたいと思った。磨いて、整えて。
あと、Skyで起きる出来事は人と僕との間で起きたことだ。僕の記憶であると同時に、相手の記憶でもある。だから大切にしたい。自分なりに、それがどんなことだったかを見つめて考えて、結晶のように形にして体の外へ置いておく。
抱えきれなかったものを綺麗に整え置く。
それ自体がもとから純粋に美しかったわけじゃなく、その中にある美しさを拾い上げて、磨いて、1ツイート…140字になるようにさらに美しいものをすくいとって置いている。

僕が抱えきれなくて置いているものを、美しいと思って受け取って、持ってってくれるあなたは、僕みたいな人間にとっては救いなのだ。
あなたが美しいですね、と思うとき、ちゃんと綺麗だったよなあ、美しかったよなあと確かめられる。
僕の代わりに小さな記憶のかけらとして持ってってくれてる人がいると言い聞かせて僕は前に進めるし、次に起きる出来事を受け止められる。

140字は、とても少ない。
ものごとの一側面、端のほう、残像や残り香を捉えるのがやっとだ。
行間をいくつも省く。いくつも取り落とす。
でも、だから、美しさや本質をすくい取れるのだとも思う。
起きた出来事からその核を探り出して手に取り、くるくる全方位から眺めて、それが相手にとっては取るに足りない出来事で、全く違う意味合いを持つ出来事だと分かりきった上で、傲慢に僕の視点から見たものに置き換えていく。
自分の卑屈さや劣等感を気付けるだけとりはらい、みる人の卑屈さや劣等感を目覚めさせないように言葉を選んで140字まで削り出す。

ほんの一側面にすぎないものが全てのように見えるから、美しい。

きっとあなたの思う美しいものと、僕が思う美しいものは、少し似ているのだと思う。
だから僕のTwitterを見て美しいと思ってくださったんだろう。

表層が抱く深層

美しいってなんだよ、とずっと考えてきた。メッセージをいただく前からずっと。
頭から振り落とせない問いがあった。
「どうして世界はこんなに汚い」という問い。

世界は汚かった。
形あるものもないものも。目に映るもの、聞こえてくるもの、触れるもの、何もかも。
そこかしこに転がる自分と世界のズレに心は擦り切れるし、心が割れる出来事も、泥水を喉に流し込まれるような出来事も起きる。
でもいつだって、一番汚いのは自分自身だった。
世界に転がる汚さの元を辿ると、自分に行き着く。
世界よりも、卑屈で、劣等感にまみれ、がんじがらめの自分に嫌気がさしていた。
自分の中でねじれているものがあり、それに沿って世界がねじれて自分の首を締め上げているということはわかるのに、そのねじれをどうすれば正せるのかわからなかった。

わからなかったから、いろんな人に話を聞きに行った。
そのとき、ある人に
「世界の汚さ自分の闇の深さに耐えられません」
と話したら
「大丈夫ですよ、この世界には、陰と陽、光と闇、黒と白が、ちゃんと半分ずつ存在していますよ」
「いついかなるときも、どんな物事にも」
「闇は深さではありません、振れ幅です。今あなたはそのうちの、隠の部分、闇の部分、黒の部分にいるだけ、それで少しバランスを取りづらくなっているだけです」
と教えてくれた。
「つまり僕も世界も生粋の汚いものではなく、美しさも持ち合わせているけど、汚い方に寄りすぎているだけということですか」と尋ねたら、
「その通りです。」
と言われた。
それでもさらに食い下がって、
「陽も光も白も見えません、あると思えません、そちらに行きたいのに行けなくて途方に暮れています」と渾身の途方に暮れた感じで言ったら、
「行く必要はありませんよ。真ん中にいることが大事です。あることに気づけばいいだけですよ」
とあっけらかんと言われた。
ほんまっすか?と変な声が出たけど、ほんまだった。

見えていないだけ。見ようとしていないだけ。
それは明るいほうを見る素質が生まれつき無いとか、自分が悪いとか、そういうのではなかった。
見るコツを知らなかっただけ。
見る練習をしてこなかっただけ。
汚いものばかり見る練習をしてきて、汚いものを見つける力がついているだけだった。
これまで生きるのに必要だったことで、仕方のないことだった。

それがちょうど、去年の今頃のことだ。Skyに生まれ(なおし)た頃だった。
美しいものを見つける練習を始めた。
Skyはわかりやすい。景色が美しい、音楽が美しい、ストーリーが美しい。
少し経って世界を知ると闇も見えてくる。
光を奪う雨、泥水、黒い生き物、精霊たちの破滅、人との関わり。
でもその闇は消されるべきものとしてではなく、その世界にとって必要なものとして存在していた。
俯瞰して見てみれば、美しい世界だった。
雨ふる雨林は美しい。暗黒竜はかっこいいし、カニも愛嬌があって可愛い。
世界は美しかった。

練習を続けていると、ある日突然できるようになる瞬間がある。
量が質に変わる瞬間、経験が技術に変わる瞬間。
プッチンプリンをうまくプッチンできなかったのにある日突然めちゃめちゃ綺麗にプッチンできるようになった(幼い僕にとって大事件だった)。ピアノでどれだけ練習しても弾けなかった箇所がある日突然弾けるようになって花丸をもらった。書道で上手く書けず上の段に行けなかったときある日突然筆が腕の一部みたいになった。バスケでドリブルができなかったのにある日突然できるようになった。
嫌なこと汚いものくらいものしか見つけられなかったのに、ある日美しいもの綺麗なものきらきらしたものも見つけられるようになった。

汚いものくらいものは、その物事の一側面でしかなかった。一側面だけを見て、僕はそれが全てで本質だと思っていた。
必ず、汚くくらいという表層の下には美しく綺麗な深層が息を潜めていて、美しく綺麗な表層の下にはくらく汚い深層がねむる。
(汚くくらい側面しかないもの、美しく綺麗な側面しかないものは嘘や偶像、虚構であり視界に入れなくていいものだということもわかった)

闇が大きければ、光もそれだけ大きくなるらしい。
悲しかったこと辛かったこと悔しかったことの分だけ、些細な出来事が嬉しい楽しいと感じる。できなかったことばかり数えて覚えてきたけど、それらは全部、夢や憧れとなって次々と叶っていった。
習い事で友達と思うように遊べなかった。だからキャンマラ行こう、って遊びに行けるのがめちゃめちゃ嬉しい。
年齢や性別が邪魔をして思うように話したり遊べなかった。だから星の子として友達になって話したり遊んだりできるのがめちゃめちゃ嬉しい。
心が割れる経験をした。でもその経験があるから似たような経験を現在進行形でしてるフレンズの話し相手になることができる。
もうなんか全部報われていった。全部間違いだったことが全部正解になった。
怒涛の勢いで伏線が回収されていく。喉から手が出るほど欲しかったものが手に入ってしまってどうしたらいいのかわからなくなる。
汚くくらいものばかり拾い集めて抱えていた手には美しく綺麗なものが溢れて、持て余し、抱えきれなくなった。
それでTwitterに日記を書くことにした。

汚いものくらいものを見つける力は、そのまま美しいもの綺麗なものを見つける力になり、汚くくらい側面をすくい取る力は、美しく綺麗なものをすくいとる力になる。
汚くくらいものがよく見えるから、それを避けながら言葉を選べる。
汚くくらいものにがんじがらめになっているから、同じような人が読んでも光にあてられて辛くならないような文をなるべく考えようと思える。

光でもなく闇でもない、真ん中にいる方法は、光をちゃんと見ながら闇に染まらず対峙し続けることだと知った。
くらいほうというのは、ある種の魅力がある。染まっていれば楽だ。何も見なくていいし、対峙しなくていい。卑屈でいれば正しさを探さなくて済む。言い訳をしていれば自信がなくてもいいと思える。嘘をつけば努力しなくていい。ただ、そこに留まり続けていると自分の中はねじれ、世界がねじれ、苦しくなっていく。
染まっている本人としてはほんとうにつらいのだけどある種の気持ちよさがあったのはこういうことだったのかとわかった。闇にいることで身を守るのを処世術のよすがとして生きてきたけど、もうその必要のない場所にいたから、バランスを取る練習を始めた。今でも行ったり来たりしながら練習中だ。
最近、光と闇の間に自分という存在が立つと「かげ」が生まれることもわかった。
「かげ」には二種類あるそうだ。
光を見ているとき、背後に伸びるのが「影」。それから、光の当たっている部分とは反対の、光が当たらない背中の部分が「陰」。僕はこの辺りにいたいなあ。
苦しんでいた過去の自分を支えてくれたようなもの、救ってくれたようなものが、そういうものだったからだ。あかるくはないが美しく、決して迎えにはきてくれないけど寄り添ってくれるもの。そういうものになりたい。

つい劣等感からかっこつけそうになるたび、自信のなさから言い訳しそうになるたび、卑屈さくらさが顔を覗かせるたび、気づいては書き直す。
今も必死だ。本人としてはギリギリのバランスを狙っているつもりなんだけど、どうだろう。私的な記録と、ある種のエンタメとして読んだ人も楽しめるようなバランスを保てていると…いいのだけど…こんな長い日記、誰が読むんだ。泣きそうだ。
いやいいのだ。まず自分のために書いてるから。書きたくて書いてるのだ。

世界も僕も、綺麗じゃない。
僕はほんとうに…
僕はほんとうに情けないやつで、ほんとに…弱くて…
とにかく僕は、情けないやつなのだ。何を言ってるんだ。
でも背も高くないし、植物好きだけど育てるの上手くないし、眠るの下手だし、数学が壊滅的にできなくて、卑屈でくらい。
自分の情けなさを人に押し付けて、大切な人を傷つけてきたし、弱さを隠すためにたくさん嘘をついてきた。

僕の声を聞けば、姿を見れば、過去を知れば、考えていることを知れば、あなたは僕に失望するだろうという想いは今でもある。失望したり嫌ったりしてくれるならいい。僕が恐怖するのは、困惑したり悲しんだりさせてしまうことだ。
自分も、自分と関わる人も笑っててほしい。それは僕の世界そのものだからだ。
世界、世界と繰り返し言ってるけれど、結局世界なんて、そいつが見えている範囲、手の届く範囲のもののことだ。
まあ、だから、あなたにとって僕のTwitterが美しいのなら、それはあなたにとっての真実であり、世界にとっての真実の一つだから、とても嬉しい。ありがとうございます。
…いや、かっこつけました。ほんとはそのまま理想的な僕でいたらいいなと思ってます。この文を読んでも、変わらずそう思っててもらえたらいいなあ。

一年前の僕なら、こんなこと言えなかった。
メッセージをもらっても、「うそだ」「あくまでTwitterのことだぞ、お前のことじゃない」と言うネガの僕の言葉に負けていただろうし、返信を書こうとすると「自慢って思うやついるぞ」「かまってちゃんかよって言ってくるやついるぞ」「お前の文章なんて価値ない」「未熟な文章晒して黒歴史作るくらいなら引っ込んどけ」と言うネガの僕の言葉に負けていただろう。
ネガの僕、マジで性格悪い、辛辣。もうちょっと僕に優しくしてくれや…
まあでも、そいつのおかげで調子に乗らずにいられるし、冷静に考えようと思えるから、うまく付き合っていきたい。いいやつだよ。言い聞かせるのが大事。吐血。

なんとか書けたのも、この半年Twitterで書く練習をしてきたからだ。嘘をつかずに傷を晒し未熟でポエミーな文しか書けなくて恥ずかしさで死にそうになりながら書いてきたけどよかった。黒歴史になったとしてもお釣りがくるくらいだ。先人だってmixiというものに黒歴史を残したそうだし。僕の世代ではそれがnoteにあたるのだろう。

そして何より、一緒に遊んで僕の夢を叶えてくれるフレンズ、じたばたもがいている僕に優しい言葉をかけてくださる優しいひと、見てくださるあなた、ハート押してくれるあなた(生きる気力です)、ズタボロで役たたずな僕を見放さないで支えてくれた大切な人たちのおかげだ。
ありがとう。
星の子として1年が経ちました。

今、闇の中でがんじがらめになっている卑屈でくらいあなた。共に思う存分卑屈でくらくなりましょう。一緒に聴きたい歌を文の最後に載せておくので一緒に聴きましょう。いいかげん卑屈にも飽きたら、その卑屈さとくらさの本領を発揮させて何か楽しいことしましょう。

メッセージをくれたこのかたは美しいものを見つけるのが上手なんだろうな。それと同じくらい、汚いものも見えているのかもしれない。笑っているといいな。穏やかに幸せでありますように。祈っています。

5ヶ月間、ネガの僕と話し合って戦いながら出したこの答えを、長すぎる返信とさせていただきたい。

“雨になって何分か後に行く
今泣いて何分か後に行く
今泣いて何分か後の自分
今泣いて何分か後に言う
今泣いて何年か後の自分
笑ってたいだろう”

作詞作曲 : 山口一郎
“夜の踊り子”より
(sakanaction, サカナクション)
“流行りの歌はぼくがつくるよ
ダサいぼくだって歌歌うよ
可愛いきみが振り向かなくても
代わりのだれかになんて
歌わせないよ”

作詞 : DAOKO
作曲 : 小島英也(ORESAMA)・DAOKO
“ぼく”
“きれいは穢い、穢いはきれい”

シェイクスピア,  福田恆存訳,  『マクベス』,  新潮文庫,  2014,  第一幕 第一場,  p. 10

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