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それは羽化の痛み


2021.9.20.Mon 日記

今日はたくさん歩いた。
歩くと、体に蓄積した疲労が攪拌されるのだという。今、全身がぐったりと心地よく重い。プールで泳ぐことでも同様の効果があるそうで、プールの後の疲労感もこれと同じものらしい。心地よい眠気をともなう疲労。この後しっかり休息と睡眠をとることで蓄積疲労が精算されるので、適度な運動と睡眠はストレス解消に効果的だそうだ。
プールの後に授業を受けねばならない学生と違って今の僕はこのまま布団に潜り心地よく眠ることを許されているのだけど、ちょっと頑張ってこの日記だけ書いてから眠ろうと思う。
さっきも言ったが、ぐったり重い腕と寝かけの脳を使ってつらつら書いたものを推敲無しに投稿するので、もろもろとっ散らかるし余計な話ばかりになると先に断っておく。今日書くことに意味があるから。…でもほんと、まじでこれ僕のリアルな日記になるから難解極まりないと思う。明日目を覚ました僕よ、すまん。なんでこんなもの投稿したんだと頭を抱えると思うが唸って耐えてくれ。

今日はどんな日だったかというと、よく歩いた日だった。
久しぶりに電車に乗り街へ出て、髪を染めて切ってもらった。すっかり引きこもっていたため毛は黄ばんだシロクマ、心持ちは冬眠明けのクマのようになっていたのだけど、美容師さんのおかげで綺麗なスノーブルーの毛になった。ただ心持ちは東京で痩身友達のいない若者。こういうとき誘える友達もいないので所在なく日曜の代官山をひとり歩くこととなった。
東横線に沿って渋谷の方へ進むとすぐに東横線を見失う。地下へ潜るのだ。横たわる山手線があるから。潜った東横線を踏み越えて山手線めがけて進むと大きな跨線橋が現れる。跨線橋や歩道橋を見るとワクワクするのはなんなのだろう。つい登ってしまう。写真に一枚納めてから跨線橋を渡る。読めないグラフィティ、貼ってある色褪せたステッカー。こういうものは違法ではあるものの街の装飾として僕は好きなのだけど、一体誰が何の目的で書いたり貼ったりしているのかずっと気になっていて、調べようと思いつつ何年も経っている。そういう、知りたいけどずっと保留にしていることが山ほどある。僕の今世の残りの人生、僕の脳のスペック、これまで知り得たことを思い浮かべてから胸がズンと重くなったので考えるのをやめた。金網越しに橋の下を山手線が走っていく。なるほどこれをエモいというのだなと思った。残念ながら僕にはエモを共有する相手がいないのでひとしきり自分で満足するまで眺めてから跨線橋をくだった。
パーンとひらけた道の方へ進むと目に入る文字が。「渋谷区ふれあい交流センター」。「日本で一番小さい植物園」。最近この施設のTwitterがバズっていたのでご存知の方も多いかもしれない。大人入館料100円…入るしかないだろ。年末には、この施設は休館してしまうそうだし。
目的なく歩き、心惹かれる方へ足を進めると運命的な出会いをすることがある。それは史跡だったり、カフェだったり、人だったりするが、今回も選択として大正解だった。
3階建ての建物、壁の一部が天井までガラス張りになっていて、傾きかけた陽が差し込む。まるで巨大な温室だ。犬も歩けば史跡にあたり、僕も歩けば巨大な温室にぶちあたるのが東京という街らしい。熱帯の植物が僕の背丈くらいある葉を広げる。進むと葉に埋もれるように椅子が置いてあった。ちらほら写生する人が座る。2階にも吹き抜けの階下を見おろせるように椅子とテーブルが置いてあった。憩いの場になっている。静かに談笑する声と流れる水の音が響く。葉脈を眺め、植物たちの説明書きを読んだ。熱帯の植物の生態は意味がわからなくて大好きだ。根っこがない、虫を食う、岩に擬態する、強烈な腐敗臭を放つ。意味がわからない笑。それらを食ったり薬にしている人間はもっと意味がわからないなと笑いつつ2、3階も見て回る。展示について書きたいことなど山ほどあるが、葉脈を眺めながらふと気づいたことがあったのでそれについて書く。一つ、僕の中で大きな問いに答えが出たのだ。そのことについて。

髪を染めてもらいながら暇つぶしにTwitterを開くと通知が来ていた。Twitter記念日。ちょうどアカウントを作って一年経ったのでお祝いしましょうという知らせだった。

誕生日や記念日を祝われるのがすごく苦手だった。
僕の誕生日は1月なのだけど、Twitterは誕生日の人のプロフィール画面になんと風船を飛ばす。僕は飛ぶ風船を眺めつつ悲鳴をあげて、どうか誰も気づかないでくれと願った。調べたら、今回は風船も飛ばないし、僕がツイートしない限り他の人には今日が記念日だとわからないらしい。ひとまずほっとして画面を閉じたけれど、1月からずいぶんと自分の心境が変わっていることに気づいていた。

誕生日、記念日。なぜそれを祝うのか。何を祝うのか。何がめでたいのか。
人間とは変な植物を食ったり薬にするほどの知性を持って生まれる。
そこに加えて、ひねくれたヘソを持つと、そういうことを考える。

1月の誕生日の時点で、僕がなんとか捻り出していた答えは、「祝う側が、祝いたいから祝うのだ」というものだった。祝われる方がどう思うにせよ、祝いたい者が祝う。やりたいことをやっている。だから祝われる方は、それを受け取ってありがとうと言うのが役割なのだ…というもの。なんちゅう理屈だ。我ながらすごい屁理屈。
僕は祝うのは好きだった。相手が生まれてきたことが嬉しいから相手の誕生日を祝い、その出来事が起きたことが嬉しいから、記念日を祝う。だが、祝われるのはもう逃げ出したくなるくらい苦手だった。そこで捻り出したのがこの屁理屈だったのだ。
そして、これが屁理屈だとも分かっていた。

祝われると言うことを、祝福されると言うことを、どう解釈しどう受け取るか。
ずっと僕の中で大きな命題だった。

ぐねぐね道をたらたらと歩き、登って下って一つの場所に辿り着き、葉脈をぐねぐねとたどって脈が合わさるところで、一つの回答が生まれた。

なるほど、こういう日は感謝をするための日だったのだ。

道を歩きながら、脈をたどりながら、ずっと、umiとしてアカウントを作ってから起きた出来事を思い返していた。
初めはひっそり日記をつけるつもりだった。ただ、鍵は付けずに公の場所に書くつもりだったから、フレンズに書いてもいいかと尋ねた。するとみんなTwitterを始めたりフォローしてくれたりして、隠れてやるつもりが公開日記となった。絵を載せると見てくれる人が現れた。絵も文も人に見せるのなんて初めてだった。それまで絵や文は耐えきれない辛さや抱えきれないことを吐き出すために隠れて描いていて、そうして生まれるものは人に見せれるようなものではなかった。初めて優しい絵を、明るい絵を、傷つけない文をかこうと努力した。
優しいものを生もうとすると、自分の優しさに触れる。
明るいものを生もうとすると、世界の明るさに触れる。
自分に優しくする方法を知った。明るいものを見つける練習をした。
140字の呟きにすくいとったかけらを集めれば、もうそれは僕の世界だ。優しく明るく、少し暗く未熟で痛々しいが、まあモラトリアムの憂鬱として許されたい…許すよ、僕は自分を許す。なぜなら、それを素敵だと言ってくれる人がいるからだ。僕が素敵だと思う人たちが、僕が産むもの、僕の世界を素敵だと言ってくれたのだ。いまだに信じ難いが、僕がアカウントを作るときから憧れていた人たちが、あなたの世界は素敵ですよなんて言ってくださったりもした。人生こんなこと起こるんだな。起こるんだよ。

正直恥ずかしくて死にそうだった。
僕の根底はすごく子供だ。よく言えば純粋。一応酒も飲めるようになった歳で、こんなこと考えてるって恥ずかしいだろ、といつも思う。それに冷静に考えてみれば、僕がやってることって、日記を朝礼台でメガホン持って読み上げるようなことなのだ。グラウンドや体育館の外を行き交う人にまで届くことがあるんだからなおさらひどい。将来黒歴史になったらどうしよう。これ、もう、恥ずかしい記憶として何年先かに皿を洗いながら思い出して奇声上げる羽目になるんじゃないか(皿洗ってる時とか、恥ずかしいことを思い出してよく奇声を発してしまう)。もうほんと何度もアカウント消そうか考えたけど、気づけば一年。なんかもうだんだん恥ずかしさのハードルも下がってきて、こんな駄文長文すら投稿できてしまう始末。
つまり、生まれて初めて、自分らしく自由にいられたのだ。

僕の周りには、子供が子供らしくいることを許せる大人があまりいなかった。彼ら自身が子供だから。そういう子供な大人は、たいがい「人に認めてもらおうとすることは間違っている、自分で自分を認めろ」と言う。
今ならわかる。僕に必要だったのは誰かや自分に認められることではなく、ありのままの自分でいることを許される居場所だ。
僕は運が良かった。恵まれている。

葉脈をたどりながら、ありがたいと思った。僕は僕を許せたし、僕は幸せになった。
ありがたい、という言葉に尽きる。恵まれたとき、それを素直に受け取ると、ありがとうという言葉しかでてこない。

umiとして一年過ごせてきたこと、その間にいただいたもの、起こったこと、全てのご縁に感謝します。ありがとうございます。

ガラスの羽を広げる

人は、生きている間に、何度も生まれ直すことが可能だと思う。

一年前、僕は自分にumiという名前をつけた。
最初は文字だけの、ただのインターネットのアカウントの文字だった。ひっそり少しの間存在し、ひっそり消えるだろうと思っていた。予想に反してそれは実体を持ち始め、質量と質感と温度を持つようになった。Skyの中で、僕はそれまで現実のあだ名とほぼ同じ名前でフレンズに呼んでもらっていたのだけど、「umiと呼んでもらえませんか」とお願いした。前の名を知っているフレンズに、初めてumiと呼んでもらった時、
「ああ、僕、今生まれなおした」
と思った。

人のアイデンティティというのは、思春期に一度崩れる。
それを再構築し、自分独自の価値観や自尊心をつかみとることで大人へと成長する。
心理学の本にそう書いてあるのを読み、「羽化だ」と思った。
チョウやハチは、幼虫から、さなぎを経て成虫となる。さなぎの中で、彼らは一度体をどろどろに溶かし、成虫となって殻を破るのだ。

人は知性を持つ。体という容れ物の中で、何度も何度も、自分を壊し、どろどろに溶かし、そしてまた形を得て、また壊す。
僕は何度だって壊す。何度もどろどろに溶けて何度も答えを出して、またその答えを打ち消していつか死のう。umiとしてしっかり生きて、僕としてしっかり生きて、現実でもしっかり生きて、寿命がきたら死のう。
これまでたくさんの時間を自分のために使ってきた。誰かのために時間を使いたい。役に立ちたい。今の僕は僕のことばかりだ。もらってばかりだ。返す方法を知りたい。返せるようになりたい。返す方法を知って返す練習をしよう。生きて、生きて、生きて愛して死にたい。
やり残したことは、来世の自分がしっかりやってくれるはずだ。

植物園の3階には、昆虫の標本がずらりと並べてあった。
昆虫標本。生と死が同時に存在する、一つの形。
umiとして書いたこと、描いたものはどんな形であれ残るだろう。
いつか標本のようにインターネットの中に展示されるはずだ。
それでいい、それがいいと思った。

ああ、結局日付を跨いでしまった。
相変わらず長い長い日記だなあ!
ここまで読んでくださった方、ありがとう。
おやすみなさい。また。

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