深度32の孤独

2022.3.15.Tue 雑記

このところずっとねむい。
気圧の乱高下、昨日は凍えたのに今日は暖かかった。そしてまた寒くなるらしい。
窓の外を見ると白く霞んでいる。モニターの見過ぎかと思って席を立ち、コーヒーを淹れながら窓の外をぼうっと見ていて、霞むのは花粉と黄砂だと気づいた。
梅が咲いている。窓を開けたら花の香りがした。あまり寒くない。
また視力が落ちたか。視界が揺らいでいる。

思考がまとまらない。何もかもが霧散していく。
こうもまとまらないでいると、自分の輪郭が揺らいでいるような気がしてくる。
自分の存在も霧散していくような感覚がする。

もやのなかに立っているような。

春から初夏の朝には、山の麓、大きな河の近くには霧がかかる。
腕を前に出して、指の先がじわりと霞むくらいの霧。
前を歩く人の姿が消えたり現れたりする。
自分の姿がそんな感じだ。
後ろから、自分を追いかけている自分がいる。
元気な時は追いつける。一緒にいて僕ら一人だと思う時もある。仲良く手を繋ぐ。たくさん喋る。喧嘩もする。ちょっと今は追いつく元気がない。
霧のなか、消えたり現れたりする自分を追いかけている。待ってくれ。置いてかないで。もう少しゆっくり進まないか。

ふわふわともやもやと揺らぐ輪郭を捕らえようとするこの感覚は、絵を描いたり文を描いたりするときの感覚と似ている。自分のなかにある、もやもやとした何か形にしたいものを、すくいとって、これを形にするのには絵がいいかな、写真かな、言葉だろうか、それとも音か?と見繕い、ああしてこうして形にしてやる。
元気がないとできないことだ。
自分の存在自体が揺らいでいたら、できない。
僕にとって絵、文、写真、その他、諸々、生み出すこと……表現というものは、自分だとか、この世界の一部をとらえることなんだろう。
いわば自分や世界の二次創作だ。

ある人と話していた。
キャラクターを作るとき、その姿形、性格、過去というような設定を固めていると、自分や自分が理想とするものが強く投影されていることに気づくというような話だった。その通りだ。途中で気づいて、戸惑う。最初はそんなつもりなく、なんとなくもやもやとしたイメージがあって、なんとなく見えているものがあって、それを形にしていただけのはずなのに。
きっと、表現というものはこの世界や自分という存在の二次創作なのだ。僕なりにしばらく考えて、ふとそう思った。

最近、一次創作をしていた。一次創作というのは、いわゆるオリジナル作品。僕は普段Skyというゲームの二次創作をしている。二次創作というのは、何かオリジナルの一次創作があって、それのファンアートだとか、それをもとにして自分の世界観で二次的に作る作品のこと。
なぜ一次創作をしだしたかというと、Skyの世界観で描いていたはずの漫画がなんだか二次創作ではなくもはや一次創作になってしまったからだ。元の作品の世界感より僕の世界観の方が強くなってしまったから。「これをSkyを使ってやる必要があるんだろうか」と思ったのがきっかけだった。
そしてやり出した一次創作。すぐに行き詰まった。今度は「Skyから受けた影響がもろに出ていて、これは一次創作と言えるのだろうか」と思うこととなったのだ。僕の中に、一次創作と二次創作の垣根がほぼないと気づく。
なんでだろうなと考えて、結局Skyも僕の世界の一部だからだと思い当たった。Skyが生活の地続きの場所に広がっている世界だから、一次創作と二次創作の垣根が低くなる。これから先、僕の一次創作はSkyの影響を色濃く受けたものになるだろう。

一次創作と、二次創作。
一次創作は結局、この世界や僕という存在の二次創作。

なんで絵を描くんだろう、なんで文を書くんだろう。
よく思う。多分理由などない。意味もない。
けどこじつけられる理由や意味はあるかなあと、暇なときに考える。
絵を描くこと、文を書くこと、表現することは、僕という人間の二次創作。僕が見ている世界の二次創作。
二次創作ってなんだっけ。
僕はSkyの二次創作をしてる。
なんでだっけ。
Skyでみた景色、体験したこと、フレンズと話したことを忘れたくないから。残しておきたいから。消化しきれなかったことを、自分なりに咀嚼し直して昇華したいから。
なんでだっけ。
大切だから、大好きだから。

この世界も大好きなのだ。自分という存在も愛している。
だからこの世界の二次創作を、自分という存在の二次創作を、表現というものをしたがるんじゃないか。
もしくは、手段なのかもしれない。
この世界を、自分という存在を愛すための。
二次創作をしながら、「僕はこれが好きなんだな」と自分で確かめているのかもしれない。すくいとって磨いた、小さいものから愛す練習をしているのかもしれない。一人でやるのもいいけど、それを誰かに見せるとき、いいねってされると、そうでしょ、そうだよね、と笑えるのかもしれない。

できない今。存在が霧散している。

きっかけがあった。
ある人に、“幸せな状態”について教えてもらったのだ。
僕は絵を描いてると幸せだ。文を書いていると幸せだ。美味しい物を食べると幸せ。美味しいコーヒーがあると幸せ。ただ、それがないときは正直辛い。退屈で死にそうになる。死にそうというか狂いそうになる。静かに狂っていきそうになる。つまり、退屈で辛くて狂いそうなネガティブな状態を、絵や文をかくことに没頭して忘れたり、美味しいものとかコーヒーで埋めてポジティブに持っていけたとき、その状態を、“幸せな状態”だと思っているのだ。
「それは違いますよ」と言われた。
「 絵を描いていても、描いていなくても、幸せであるというのが、幸せな状態というものなんですよ」と言われた。一瞬では理解できなかった。
文を書いていても、書いていなくても。美味しものがあってもなくても。コーヒーがあってもなくても。幸せ。
「絵を描いてもいいし、描かなくてもいい。とも言い換えられますね。コーヒーがあってもなくてもいい。幸せだから。そういう感じです。」とのこと。
衝撃。
「え……それって存在しているだけで幸せってことですかね……?」
と尋ねると、笑って「そうですよ」と朗らかに言われた。
衝撃。
数直線みたいなもので書くとわかりやすいのだとその人は言った。
原点の0のところにいる状態が、幸せな状態……というか、辛くも楽しくもない、なんともない状態。そこからマイナスに行けば不幸せ。プラスに行けたら幸せ。僕はこれまで右往左往、行ったり来たりの点P状態で生きてきた。原点があるなんて知らなかったんや。その発想はなかった。
「それだと、幸せと不幸せ、辛いと楽しい、苦しいと楽しかない世界だから、苦しいでしょう。ずっと行ったり来たりで。幸せだと感じるということは、同時に不幸せも認識するしね。」
ハイもうその通りで。

でも。幸せでも不幸せでもない。なんともない。
「それって“無”じゃないですか」
と僕は尋ねた。するとその人は、数直線の0の原点からスーッと上に線を伸ばして、「こうやって、上にいけるんです。」と言って、その線の先に蓮の花を描いた。
「この原点から上に行けます。原点にあるのは無。そしてそこには無限の可能性が広がっている。その可能性から、どんな花も咲かせられる。」と言った。

絵を描いても描かなくても幸せ。文を書いても書かなくても幸せ。
理屈はわかった。だが想像ができない実感が湧かない。そうなったときの自分を想像できない。
数日間考えた。そして気づいた。
僕は絵を描いても描かなくても、文を書いても書かなくても幸せなら、絵や文を書く自信がないのだ。なぜならこれまで、それらはネガからポジへ行くための切符だったから、切符ももういらないよ、幸せです、ここが君の居場所だよとなったら、僕には文も絵も必要なくなるかも。絵を描かない、文を描かない、表現をしない自分が想像できないから、よくわからないのだ。そしてそんな自分は正直、嫌だ、怖い。そう思っていることに気づいた。

折よく、ちょうどそのとき幼馴染と会う機会があった。小学生の頃、一緒に進学塾に通って、一緒に中学受験を経験した。その子は当時、「小説家になりたい」と言っていた。
数年ぶりに会って、お互い大人になっていて、「そういえば小説はどう?書いてる?」と聞いたら、「書いてない。でもずっと書きたい。でも毎日帰ってきたらへとへとで、動画をぼうっと見るしかできなくて。」と言っていた。
そうだよなあ。中学からは志望校が違ったので別れたけれど、たまに会っては同じようなことを喋っていたのを思い出した。書いてる?書けてない。そんな暇なくない?ほんとね。親に見つかったら怖いし。それね。でも一番はあれだね。もう書く気力がない。心が日々生きるので精一杯だ笑。何回もそんな話をしてきていた。
だから、違う話をしようと思って、文を書いても書かなくてもいいこと、それで幸せでもいられることを話してみた。

やっぱりその子も最初は理解に苦しんでいた。
でも徐々に理解して、「理屈はわかった。仮にそうだとして、思うんだけど。自分は文を書いても書かなくても幸せになったら、文を書く自信がない」と言った。
ほんとな。まじでそれな。
僕はこのときすでに、しばらく絵も文もかかないで少し経っていた。
二人で、カフェのソファに沈み込みながら「自信ねえわ……」としばらく呟きあって、だいぶ溶けちゃったアイスが乗ったワッフルを齧りつつコーヒーを呑んだ。僕はトッピングを選べなかった結果、とりあえず生クリームとバターとアイスとハチミツを全部つけてもらうという暴挙を犯していたのでワッフルの配分に悩み、結局全部ちょっとずつ余らせてワッフルを食べ切ってしまった。暴挙。美味しかった。
店を出て歩きながら話して、別れ際も話して、最後に僕らが出したのは、「仮に幸せになったとして、何か書いていてほしいね」という結論だった。「未来の自分が幸せで、表現しなくてもいいと思うならそれでいいけど、でも、どっちかっていうと表現してる自分がいてほしい」っていう。祈りに近い。祈っているのは多分、僕の中に残ってる、小学生の頃の、表現できなかった自分。

それが数ヶ月前のこと。
いろいろあって、なんやかんやで、原点のゼロを意識しながら生きてみた。それから僕の中で、成仏できずに泣いてる小学生の自分だとか、いろんな自分を無視しないで向き合って生きてみた。多分だいぶ成仏したんじゃないかと思われる。
そして抜け殻になっている今。
わからない。うまくできていないかもしれない。

絵を描いてもいいし描かなくてもいい。
文を書いても書かなくても。

これまで表現することはこの世界や自分という存在の二次創作だった訳で。
それはこの世界とか自分を愛するためだったからで。
この世界とか自分のことがなんだかんだ大好きだったからで。

「好きと嫌い、楽しいと苦しい、幸せと不幸せを行ったり来たりするのはしんどいでしょう」という言葉を思い出す。
“好きだから”という初期衝動を、抜けださなきゃならない局面が来ている。
一見正しいようで、素敵なようで、楽しいようで、実は苦しみと表裏一体の衝動から抜け出さなきゃならない。

ゼロ地点には、“そこに存在している”という事実しか存在しない。
そしてそれは無限の可能性でもある。
この世界のこと、別に好きでも嫌いでも、なんともないよ、そこにあるね。
自分のこと、別に好きでも嫌いでも、なんともないよ、そこにいるね。
それでいいよ。

霧のなか、前を歩く自分を追っている。
待ってくれ、置いてかないで。
そう思いながらこのところ生きているような気がする。
でもそれは僕が勝手に思っているだけかもしれない。
僕はちゃんとそこにいる。本当は。別にどこに行ってもいいし、どこに行かなくてもいいし。ここにいていいし。抱きしめなくても、手すら繋がなくても、喧嘩しなくてもいいのに。確かめなくていいのに。許すも何も、そこにいるだけなのに。なのに僕が勝手に焦っている。のかもしれない。

深度32

これを書く前、僕の孤独は深まっていた。
久しぶりな気がする。この感じ。気づけばまたこの場所に来ていた、と思った。
孤独が深まると戻ってくる場所、落ちるだけ落ちるとたどり着くところ。
苦しいとかの先。孤独とかの先。先というか、深い深い深度。

苦しいとか、思う思考すら霧散する。
死にたいとか、よくわからない。
消えたいなら少しわかるかもしれないけど、すでに存在が霧散しているから、もう消えているよ、とも思う。

この場所では、本当に言葉が役に立たない。
今も書きながら、ちゃんと文が書けているのかよくわからない。
何も伝えられないし、伝わってこない。文を読んでも、頭がうまく意味を理解してくれないのだ。何かを言葉にしようとしても、何もかも霧散していく。

人は鬱の入り口に立つと、まず文が読めなくなる。うまく喋れなくなる。多分その辺にいる。大丈夫、何度もなったし、何度も通り抜けてきた。歩き方も教えてもらった。帰り方もわかる。ただ今は少し動けないだけだ。

ただ孤独なだけ。
僕が存在してるだけ。
それで十分なはずなのに、孤独なのは、僕が僕を見失っているからだろう。
ここにいるよ、ここにあるよ、動かないで、それをするだけ。
こうやって文を書きたくなったのも、霧散する思考がここにあるよ、という僕の声だ。

初めてこうなったとき、僕は言葉を諦めてしまった。
それまで、深い孤独に寄り添ってくれるのは、本しかなかった。
どんだけ孤独でも、本さえ開けば違う世界に連れて行ってもらえる。誰に話が通じなくても、誰の話が通じなくても、同じ深度、似たような温度の世界から話しかけてくれる本があった。僕がうまく言葉にできないものを、みるみる言語化してくれる本があった。深い共感を得て、一人ではないと思えるような。
でも、深い深いこの深度まできたとき、文字が読めなくなった。
それまで簡単に開くことができていた本の表紙が、びくともしない扉になっていた。
愛が余って、憎しみとなるみたいな。本は僕を救ってくれない。言葉は僕を救わない。この深度にいる人間を、言葉は救わないと思った。言葉の使い手にはなるまいと思った。

それに反するように、僕の言葉は精度を増した。いろんなものに対する感覚が過敏になっていたからだと思う。どうにか言葉にしようとして、どうにかわかってもらわなくちゃと焦って、無理矢理言葉にしてみた。僕の言葉が未熟だから届かないんだと思って、思考と言葉を研いで研いで、鋭いものにして突きつけたこともある。ものすごく傷付けたし傷ついた。言葉は強すぎる。暴きすぎる。それに、届いたところで。届かなくて良いものだってある。僕は未熟だった。届けるべきものと、届けなくていいものの判別がつかないまま、言葉を使うのはあまりにも危うい。もう言葉なんて使うものかと思った。

この場所にいる自分に、わかりやすい言葉のラベルを貼って楽になろうとしたこともある。HSP、ADHD、鬱、適応障害、たくさんの言葉があるけれど、どれを張ったところで変わらない。一時的に居場所や活路を見出せた気になっても、自分を本質的に理解することはない。結局は、自分の存在と真正面に向き合うとき、ラベルは何の役にも立たなかった。

でも今、それらの記憶を思い出すとき、痛みも苦しみも伴わなくなってみて思うのは、この場所に戻って来て思うのは、ここはたぶん、言葉では表せない場所なのだ。言葉はとても細かい。数も種類も限られている。表層にある。言葉の層を抜けて、その下に広がっているのは感情の層だ。表層で言葉を使える人間はそれなりにいるけれど、感情の層で言葉を使える人間はあまりいない。感情を言語化できる人間は、とてもとても少ない。本来しなくていいことだから、感情を言語化しようなどと酔狂なことを試みる人間がそもそも少ない。僕は最近までそれを知らなかった。みんなできるけれど、しないで生きているのだと思っていた。弱さや感情が言葉になってこぼれ落ちる自分を恥じて、自分も我慢できるようにならなくてはと思っていたけれど、「それはしないんじゃなくて、できないことの方が多いんだよ」と教えてくれた人がいた。「それは君の才能だよ」と。

言葉の層を抜けて、その下の感情の層を抜けて、さらに深い場所。存在の本質のようなここで言葉を使うなんてことは、本来しなくていいし、できなくて当然ですらある。ひとりの人間の存在を表すには、言葉は細かすぎる、小さすぎる。本来の用途から外れている。言葉に裏切られた訳じゃない。言葉を諦める必要もない。そしてこの深度で、結局僕は言葉を使おうと試みている。それが僕だ。
僕は今、僕という存在を言語化し得たかもしれない。ほんの、魂の端の方だけかもしれないけど。

これを書くきっかけになったのが深度32という言葉だった。頭にずっと浮かんでいた。なにかわからなくてモヤモヤする。こういうときは書いているうちに「そういうことか」とわかってくるから、今回も思考を書き出したらわかるだろうと思ってとりあえず書き始めて今に至る。そして今。正直未だになにかわからない。なんだろうこれは。

32という数字について考えた。「多分、孤独の数字」となんとなく言ってる自分の声がする。32……32ビットは、64ビットが主流の今の世界では孤独の数字とも言えるかもしれない。でも「違う、それは深度の数字だ」と言ってる自分の声がする。
深度。なんだろう。
孤独な鯨(クジラ)の声だろうかと思ったけど、あれは52Hzだ。鯨は、種によって決まった範囲の周波数で歌う。そうやって鯨同士で会話をしながら群れを成して海を回遊する。しかしどの周波数とも違う、52Hzで歌う鯨が1個体だけいる。どの周波数とも違うその鯨の歌声は、どの鯨にも届かない。だからたった一個体だけで、海を回遊している。Wikiを見たら1980年代から継続的に観測されているらしい。鯨は長寿だ。今も生きているだろうか。生きているなら、きっとまだ歌っている。
深度32。わからないけど、多分今いるこの場所のことだろう。言葉が追いつかない、深い深い深度だ。存在と、命に近い場所だ。そういうことにしておこう。

この深度から、また言葉の層まで生きて戻る。言葉が通じる層まで。もう前なったときみたいにここに留まったりしたくない。耐えるためには必要だったけど、そうやって耐える必要もない自由な場所にせっかく生き延びてこれたのだ。
孤独より深い場所、辛いとか苦しいとか痛いとか、楽しいとか嬉しいとかの先には、たぶん、存在しているという事実だけが存在する。無であり、無限の可能性だ。
もう僕、それでいいよ、それがいいよ。
きっとそうなったら、そのまま喋るし、書くよ。いるだけでそれが表現だ。僕という存在の表出だ。
存在しているということができたら、きっとやっと一次創作が始まる。

Water lily

誰にも言葉が通じない場所、誰の言葉も通じない場所、というか言葉で表すことがそもそも難しい、必要のないはずの場所で、それでも響くのが歌だったりする。
今の僕がいる場所と、似ている曲ってなんだろうと考えた。
前にこんなふうになってたとき、よく聴いていたものを探したら、illionのWater lilyだった。

“ヘッドライト重なり合って 交わり合った時に
消えてしまうあの現象は あの奇跡は なんだっけ

なに一つつかめない僕ら せめてもらったこの手
叩こうが 撫でようがいいさ 君のものだ
それは

行かないでと言わないでよ
行かないといけなくなる
泣かないでと言わないでよ
泣かないといけなくなる

君の名前を呼びたいだけなのに”

作詞作曲 : illion
“Water lily”

“胸の痛み お互いの中に 分かり合いきれるわけもない
だけど でも 今はそれがいい それがいい それがいい

「僕らどこへでも行けると」 調子のいいことでも言おう
君が笑ってくれたなら もうかもんだ もうけもんさ”

作詞作曲 :  illion
“Water lily”

僕が使っているのと、同じような言葉ばかりで笑ってしまった。
これは僕が影響を受けすぎたからなのだろうか。また一次創作と二次創作の垣根がなくなっているだけなのだろうか。それとも同じような孤独とか、似たような思考や経験があると、似たような言葉にたどり着くものなのだろうか。
もう、どちらでもいいけれど、だからこそ今の僕の深度に心地いいのだなと思った。

自分の名前を呼んでみる。
ここにいるよ。
どこにも行けるし、行かなくてもいいよ。
そばにいるよ。
君のこと、好きでもないし嫌いでもないよ。愛してるよ。
それでいいよ。

Water lily とは、蓮の花だ。
できすぎている。本当に。

深度32、いのちにちかいばしょでねむる。
また起きれるように。おやすみなさい。


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