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さつきちゃん

 さつきちゃんが変わってしまった。
ここ数日、教室はその話でもちきりでした。無遅刻無欠席、成績優秀、才色兼備、文武両道。この世のありとあらゆる褒め言葉は、さつきちゃんのためにあると言っても過言ではなかったように思います。それぐらい、さつきちゃんは天才だったのです。
 そんなさつきちゃんが中学三年生の夏休み明けに何日も学校を休んで、やっと学校に来たと思ったら、学校の宿題を一切やっていないから提出できないと言うのだから驚きです。校則違反なんてしたことがなかったのにスカートも短くなっていて、けれど心なしか夏休み前よりも顔色が明るくなっていました。きっと何かいいことがあったのだな、にわかにざわめき立つ教室内で、さつきちゃんと一番仲が良かった私はそう思いました。それから数日後の昼休みに、屋上手前の階段に座ってさつきちゃんに話を聞きました。
 さつきちゃんの口からは、私の想像を遥かに超えるいいこと、が紡がれました。
 彼氏が出来たこと、夏休み中はほとんど彼氏の家に泊まっていたこと、彼氏の趣味に合わせてスカートを短くしたこと、泊まっている間にピアスを開けたこと、その他いろいろ。彼氏とのプリクラを見せてもらうと、そこに写っていたのは軽薄という言葉に顔がついたような、女遊びをたくさんしていそうな金髪の男でした。何歳ぐらい上かは分かりませんが、歳上には間違いありません。
 こんな趣味の悪い男を選ぶなんて。
 私は少し腹立たしくなって、さつきちゃんに言いました。
「さつきちゃんらしくないね、こんな人選ぶなんて。」
すると、さつきちゃんの顔からさっきまでの笑顔が嘘みたいに消えていきました。そして立ち上がって、クルリと屋上の方を向きました。
ひらり、ふわり。さつきちゃんのスカートが前より軽やかに舞い上がります。
「私らしさって、一体何なのかしらね」
そう言って、さつきちゃんは入ってはいけませんと先生にきつく言われている屋上の扉を、悪びれる素振りも見せずに開けました。そのまま扉の奥に吸い込まれていったのでつられて私も後を追って、扉の奥に進みました。
扉の向こうでは、夏の終わりの風が吹いていました。

 それからまた数日後。私とさつきちゃんは、屋上で先日と同じように話していました。先生たちが見回りに来ないか不安で仕方がない私とは裏腹に、さつきちゃんは快適そうです。
 鳥籠から放たれた鳥を彷彿とさせるその姿に私は最悪の事態の想像までして、一層不安になりました。さつきちゃんが変わってしまったのを、気の迷いだと思いたいのかもしれません。
 そんな私の不安も知らずに、さつきちゃんは落下防止の手すりから身を乗り出して青い空を見ています。
 さつきちゃんには、青がよく似合う。
 今まで感じていた不安と、さつきちゃんを綺麗だと思う感情が混ざり合って、溶けていきます。
「秋なんてなかったみたいに、すぐ冬が来るわ」
 私は耳を隠すように編まれた三つ編みがゆっくりと解かれる動作に見とれていました。
 さつきちゃんの黒髪の毛束一つ一つがやわらかく波打っています。露わになった耳にはピアスがひとつ、光っていました。さつきちゃんの耳たぶが熱を持って赤くなる様を見て、私は不思議に思います。どうして、身体が拒むのに金属を通すのでしょう。
「ねえ、あやめちゃん」
 どうしたの、と私が言うと、さつきちゃんはこちらを振り返りました。
ふわりと広がるスカートからは薄桃色の膝が見えています。その美しさを人目に晒して欲しくなかった私は、また少し悲しく、腹立たしくなりました。感情に任せて何か言ってしまうのが私の悪い癖だということは重々承知ですが、それでも何か言うことはやめられません。
「さつきちゃんはどうするの。冬が来たら、すぐ受験の話が出るはずだよ。高校、どうするの」
「行くわよ。ここから距離のある、誰も私のことを知らないようなところ」
 私は愕然としました。さつきちゃんは近くの進学校に行くと誰もが信じていたからです。
「どうして、さつきちゃんなら、どこだって…あの高校だって行けるのに」
そう私が言うと、さつきちゃんはじっとこちらを見てニコリと笑い、こう言いました。
「どこだって行けるから、私はみんながいない場所を選ぶのよ」
「みんなみんな、私を型にはめて身動きが取れないようにするんだもの。私は自由に恋愛したいし、自由におしゃれしたいし、自由に生きていきたいわ。だから、みんなみんな邪魔なの。」
その言葉は、私を傷つけるには十分すぎるぐらいでした。私もみんなの中に入ってしまっていることが、さつきちゃんの目を見たらすぐに分かったからです。
もう笑っていない目を見ながら、私は呆然としていました。
 それから、さつきちゃんの言った通り秋はすぐ過ぎて、冬が来て、私たちは高校受験のために勉強をして、そのうちに春が来ました。さつきちゃんは遠いだけの、偏差値もそう高くない高校を受験して、無事合格したよと私に報告してくれました。その顔は晴れ晴れとしていて、私は悟りました。
これから先、私とさつきちゃんはもう二度と会うことはないのだろう、と。
その事実は存外簡単に、腑に落ちました。

◇  ◇  ◇
 もう何年も経った今だからこそ、思うことがあります。
誰よりも早く大人になってしまったさつきちゃんは、本当は誰よりも子どものままだったのかも知れない、と。私たちを見下して大人ぶっていたような気がしてならないのです。
 だって、茹だるような夏の夜にあのどうしようもない軽薄そうな男に開けてもらったというピアスは、卒業の日が訪れてもさつきちゃんの耳には馴染んでいませんでしたから。


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