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#6 牧場のあとへ

2014年8月、私は勤めていた会社を辞めてフリーになり、東京都下から千葉県成田市へと居を移しました。引っ越した理由は前回まで書いてきたとおり、成田空港ができる以前の地域のことを取材するためです。そこは三里塚と呼ばれ、佐藤栄作内閣によって空港建設予定地として閣議決定されて以来、土地の農民と全国の新左翼党派の若者たちによる闘争の地として知られるようになりましたが、闘争以前は大きな牧場を中心とした農村地帯でした。

ついでに、なぜフリーになったかと言うと、やはり空港闘争という難しい事情を前提とした取材では、会社にも予期せぬ迷惑をかけてしまう可能性があると考えたためです。もちろん、現地に暮らした方が、息の長い、深い取材ができることは言うまでもありませんから、そうしたリスクとメリットを考慮して、フリーになり、現地に移住したわけです。

さて、空港以前の三里塚に大きな牧場が存在した、と書きました。日本の牧場というと、馬や牛、羊などが緑の原っぱで放され、畜舎があり、もっぱら北海道に多いといったイメージでしょうか。もちろん、本州や四国、九州にも牧場があり、なかには観光地として知られているところもあります。そうした牧場はほとんどが民間の牧場で、観光牧場であれば遊びに行くことも簡単ですが、家畜の繁殖や育成、酪農などの事業を行う民間牧場は、通常、観光目的の来場者は受け入れません。また、国や自治体が管理する研究目的の牧場も各地にあり、そうした場所は基本的に関係者以外立ち入り禁止です。

では、三里塚にあった牧場はどんなところだったのでしょうか。#1と#2の中で既に名前には触れていますが、そこは「下総御料牧場」と呼ばれる明治創業の皇室の牧場でした。戦前は日本を代表するサラブレッドの生産地であり、また関東屈指の花見の名所としても知られていました。調べていくうちに分かったことですが、その牧場は皇室のためだけでなく、地域とも密に関わり、全国各地から農牧関係者や牧場見学者が来場する、非常に重要な役割を果たしてきた牧場だったのです。

その牧場が空港建設予定地となって昭和44年に閉場したという歴史は、平成・令和の時代に成田空港を利用する人々のほとんどにとって知る由もないことです。また、空港闘争以降に三里塚に足を運ぶようになった世代の人々でも、闘争以前の姿は知りませんから、「三里塚」は知っていても「牧場」は知らない人が多いわけです。

しかし、少し考えてみると、皇室の牧場を閉めてまで国際空港を建設しようとした当時の政府の姿勢と、そんな政府の動きに激しく対立した土地の農民と全国の新左翼系の若者という構図は、なんとも不思議です。「反対の反対は賛成」ではないですが、「皇室の牧場」と「土地の農民」+「全国の新左翼系の若者」が同じ側に立っていたとも言えます。そんな側面も、私が牧場に興味を持った理由の一つでした。

とはいえ、私が取材しようと考えたのは牧場のことであり、牧場があった時代の地域のことです。それを知るためには、空港闘争のことはいったん脇に置いて、まずは三里塚にある御料牧場記念館を訪ねてみるべし。ということで、#2で綴った恩人が当時案内人を務めていた記念館を訪れ、恩人からたくさんのアドバイスや関係者の紹介を受け、下総御料牧場の歴史を紐解いていくことになったのです。

さてさて、これまで羊のことにほとんど触れていなかったですが、ここでようやく羊が登場することになります。そう、下総御料牧場の歴史を紐解いていくと、まず何よりも先に羊なのです。羊を語らずして下総御料牧場は語れません。また、下総御料牧場を語らずして日本の羊を語ることもできません。

というわけで、ここまで「なぜ今の自分があるのか」という問いに対して記憶の断片を書いてきました。「なぜ三里塚にいるのか」については、ある程度説明できたと思います。ここから先は「なぜ羊なのか」に移ります。いや、ここからはいろいろ幅を広げて書いていこうかな。とりあえず「羊」アクセル全開で。。

三里塚の地域の人々が描いた牧場の思い出壁画

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