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#5 震災を経て

こうしてnoteを書いている今、私は、航空機のエンジン音が窓外から時おり聞こえるアパートに暮らしています。天候にもよりますが、朝6時ごろになると空港のほうから巨大なタービンの唸りが響いてきます。もっとも、滑走路先の航路直下に位置する地域のような深刻な状況ではなく、巨大な鶏がわりと近くで鳴いているというぐらいの許容範囲ではあります。

さて前回、航空記者として働き出してまもなく、成田空港の周りを初めて歩いたことなどを書きました。経済記者の道を邁進しようとする者にとって大切なことは、経済の動向をつかむことであり、数字が表すものを読み解くことであり、企業経営者の展望を先読みすることであり、行政の施策を明確に分析することです。そんな視点から業界を取材し、記事にして読み手に届けることは、もちろんやりがいのある仕事でした。多くの人の繋がりもでき、楽しいこともたくさんありました。

そんな日々を送っていたある日、一人の先輩記者から「成田闘争の歴史について、誰かがまとめたほうがいい」というような提言を受けました。その人は、成田開港からまもなく記者の職に就いた人で、空港闘争が続く厳しい時代を目撃してきたベテランでした。その提言は、酒の席の酔いの中から冗談半分で口にしたものだったようですが、私は言葉の重みを新人らしくそのまま受け止め、その夜から真剣に成田闘争のことを考えるようになりました。

しかし、先輩記者からの提言に答えを出せぬまま、私はやがて退職を決意し、航空業界から離れることになりました。会社を辞めた背景には、前向きな理由も後向きな理由もありましたが、離れたことで、経済記者という一種の頸木から自由になることができました。

その後、私は業界を転じ、紙の大量脱酸性化処理という珍しい事業をやっている会社で仕事を始めました。その仕事では、工場で大きな機械を使った処理作業を行う一方で、図書館などに赴いて、書庫に並ぶ貴重な書籍や史料を点検する作業にも携わりました。そうした経験は、後々の文献調査の活動で大いに役立つことになりました。

その工場で働いていた2011年3月11日、東日本大震災が発生し、さまざまな変化が始まりました。私のいた工場では大きな被害もありませんでしたが、その日は大事をとって早めに業務を終了し、帰宅できる人は会社の車で家まで送り届けられました。住まいが少し遠方だった私は、電車が止まっていたため、繁華街のバーなどで一夜を過ごし、翌日午後に帰宅することができました。被災直後の復旧フェーズは、関東以北に暮らす多くの人たちと同様に被災当事者として経験しましたが、より深刻な被災を受けた地域の人々に比べると、暮らしへの影響は圧倒的に短期間で済んだことも事実でした。

東北の被災地へ最初に足を運んだのは4月20日でした。津波に呑まれ、火災で燃え、地盤の沈んだ町の中をあてもなく歩きました。すべてが失われていました。人間の作り上げたものなど、自然の前ではこれほど脆いのだという事実を受け入れるのに、東京へ戻って何日もかかりました。同時に、祖父母の世代が経験した戦争のことも思わずにはいられませんでした。

最初の被災地訪問のとき、港町の高台の避難所に暮らす一人の男性に話を聞きました。その方は「刺身が食べたいよ」としみじみと語りました。目の前に海があり、震災前までは刺身など毎日のように食べていたのに、それが叶わなくなる日が来ることなど想像もできなかった。そんな思いの籠った一言でした。

こうした状況を目にし、さらに原発事故によって生じた社会や政治の混乱に直面する中で、少し前まで経済記者として大切だと思っていた価値観が、あまりに空虚なものだと感じるようになりました。知るべきものや伝えるべきものは、もっと別なものなのだということにようやく目覚めたのです。市場価値や生産効率や合理性。それらは全て、物事のある一面であり、その裏にはもう一つ別の一面がある。そのもう一つ別の一面こそ、本当に見つめなければならないものだと気づいたのです。

そうした考えを整理していくうち、自分の故郷の塩田のことも思い出されました。なぜ、塩田はなくなってしまったのか。その背景を少し調べると、イオン交換膜製塩法という、より効率の高い製塩法が導入されたことがきっかけだったと分かりました。より効率の高い製塩法の導入により、塩田が消え、そこに住宅地が広がり、今の故郷の風景ができた。それは何を意味しているのか。

そうした歴史そのものを、私は否定するつもりは毛頭ありません。自分の生はその歴史の上に成り立ってきたわけですし、従来の製塩法からイオン交換膜による製塩への切り替えも、良かれと思って導入されているのです。しかし、従来の製塩法に対する評価や、それに伴う副次的な産物や現象に対する評価は、果たして十分に行われてきたのか。そんなことを、東日本大震災を契機に考えるようになりました。それこそが、前回のnoteの終わりに記した、眠った種が芽を出した瞬間だったのです。

震災後、私は大量脱酸性化処理の仕事から転じて、再び、記者の仕事に就きました。今度は、航空業界ではなく、食物の業界を取材する立場の記者です。そこでは、わりと自由度のある取材ができたため、外食や食品製造だけでなく、昔ながらの発酵食品やその地域の歴史、農林水産分野まで視野を広げることができました。そしてある日、図らずも成田空港と再会することになったのです。それも、今回は航空ではなく、有機農業や種苗といった農の視点から。

農の視点を持つことで、成田闘争そのものではなく、闘争以前の地域の様子に関心が向き、「闘争以前の、賛成・反対に別れる前の地域について書いてみたい」と思うようになりました。そして、いざ本格的に調べようと資料をめくり始めたときに目に止まったのが、一つの大きな牧場の存在だったのです。

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